フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/05/05 第5号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第5号■

「縁」−ある司令官との出会いから−

2日前の5月1日、一通のエアメールがタイから届いた。封筒に記された 宛名に目をやると、妙に見覚えがある字だ。よく見ると、自分で表書きを した返信用の封筒だった。

封を切ると、10cm×15cmほどのメモ用紙が 一枚出てきた。ボ・ジョーからの返信だった。

タイ・ビルマ国境では今も、果てのない「武装抵抗闘争」が続いている。 53年目を迎えた闘争は、ついに世界で一番古い内戦となった。ボ・ジョ ーは、軍事政権の操る政府軍に抵抗を続けているカレン民族同盟解放軍( KNLA=Karen National Liberation Army)の第5旅団の司令官である。

若いカレンのゲリラ兵3名に付き添われてビルマの山奥に入ったのは、昨年12月23日。山を下りてきたのが1月7日。目的はただ一つ、KNL Aの7つある旅団のうちの一つ、第5旅団の司令官・ボ・ジョーに会うこ とだった。

カレンの取材を始めて5年目の97年、カレン指導部内のいざこざにうん ざりした私は、知り合いのフランス人の元義勇兵Jに愚痴った。

「カレンの抵抗闘争には希望が感じられない。特に総司令部が陥落した9 5年以降の指導部の路線はもう八方ふさがりだ。もう取材を続けるのが嫌 になった」

そのときJが言った。
「結論はボ・ジョーに会ってから下すんだな。彼は唯一、実直なカレン指 導者の一人だ。彼は他の老いた指導者と違ってまだ若い。可能性を持って いる。確か、おまえと同じくらいの年齢だ。絶対に会ってみるべきだ」

その時から第5旅団の若き司令官・ボ・ジョーの名前が自然と耳に入って くるようになった。他の6つの旅団の司令官が全員60歳を越す中で、彼 はただ一人、30代後半の司令官だった。

ある時、KNLAに入った新兵と話をすることがあった。彼は、「第5旅 団への配属を命じられたんだ」と、ちょっとばかり落ち込んでいた。第5 旅団の管轄する地域は、ほとんどが山の中にある。

山歩きが生活の一部というカレン人でも、第5旅団で兵士として活動するにはさすがにつらい場所と説明があった。また、大隊長から旅団長へと昇進した5年前、自らを律する為、酒やタバコをやめたボ・ジョーの厳しさ は知れ渡っている。

実は1昨年、彼と会う機会は何度かあったが、運悪くすれ違いが続いた。 ビルマ軍から賞金首が懸けられているボ・ジョーは、、隠密行動が多い。 カレンの取材にはそれほど苦労しない私もずいぶんとてこずる。

それが昨年の暮れ、ようやく彼に会いに行く機会ができた。また、第5旅 団に行くには、とにかく時間がかかる。往路に1週間、滞在に1週間、復 路に1週間、ビルマ政府軍の動向を考えて予備に1週間。最低1ヶ月の期間を確保しなければならない。

首尾よく彼の取材できたとしても、それが必ずしも一般のメディアで報告 できるとは限らない。そう考えると、カレンの取材はできれば近場の第6 旅団か第7旅団でということになる。

できるなら新世紀を山の中でカレンの人たちと一緒に迎えたい。カンボジ アで取材をしていた昨年の12月、そんなふうに思い始めた。すぐさまその思いを行動に移した。

タイからビルマ国境をめざす。ボートを借り切ってサルウィン河をさかのぼり、雨季なら1週間以上かかる山道を約2日間歩いた。

初めてカレンの取材に入った私は9年前、ほぼ同じ地域を歩いていた。通 り過ぎるカレンの村の生活には何ら変わりはなかった。夜明け前に起きだ し、日が暮れれば一日が終わる。

電気もガスも、水道もない生活。時計よりも太陽、月、星が人間の時間を コントロールする生活だ。唯一変わったと言えば、近くまでビルマ軍が迫 ってくるようになり、地雷が埋められた地域が増えてきたことだろうか。

「ここまで取材に来てくれたジャーナリストは君が初めてだよ」
ボ・ジョーは朴訥とした風貌をしていた。司令官と名乗られなければ、田舎の農夫の風貌だ。

話の中で偶然、私と同じ歳ということが判明した。そ れも生まれも同じ月。たった6日違いの生年月日。30数年前、ほとんど 同じ時期、この世に生を受けた彼と私。何がその違いを生じさせたのか。

自然いっぱいの山の中で、朝日や夕日の美しさにうっとりしながら、人間 が作り出した暦や歴史とはなんなんだろうかと考えてしまった。

歴史には「もし」という言葉は許されない。

しかしここで、自由気ままな私が「もし(私がカレンに生まれていたなら)」、 と仮定することは許されない。53年目に入ろうとするカレンの内戦。追 いつめられた彼らの実状。それでも戦わざるを得ないボ・ジョーの厳しい 現実は、私にその「もし」を許さない。

しかしボ・ジョーこそが、「もし」と言うとき、その言葉にはこの歴史と 立場のすれ違いへの皮肉が込められているように思える。私に「逆インタ ビュー」をしたボ・ジョーは、ノートに記した2人の生年月日の文字をな ぞりながら彼は言った。

「もし、君が私の立場ならどうする」

現在のカレンの政治的・戦闘的状況。カレン指導部内での矛盾。さらに個人的な苦しみまで私に話してくれれた上での質問だった。そんな「もし」 に私はこたえることが出来なかった。

私をまっすぐ見つめる目。教えて欲しいと問いかけるまなざし。彼の村を思う気持ち、カレンを思いやる心、「自由」を夢見る日々。考え始めると 夜も眠れないという。彼の質問に、私にはこたえる言葉がなかった。

新世紀を迎えた1月1日朝5時40分、60名のカレン兵を率いた彼はビ ルマ軍に戦いを挑んだ。手持ちの武器は旧式でうまく作動しなかった。5名の死者。13名の負傷者。ゲリラ戦としては致命的な大敗である。

「戦いたくない。が戦わざるを得ないんだ」。噛みしめるように話すボ・ジョー。私は彼の置かれた状況の過酷さを想像することはできるが、決して彼の感じる思いを共有・共感できるはずはない。

そんな彼に私は残酷な質問をした。
「死んだ5人の人生、運命についてどう思う」と。
その日の午後、彼は柵に腰をおろし、じっと考え込んでいた。その姿は今でも目に焼き付いている。夕方、彼は過労で倒れた。

人は、他者との関係性の中から自己の存在位置を見いだすものだ。私が彼に会いに行ったのは、なにか運命づけられていたからなのか。それともた だの偶然の出会いなのか。

別れの前夜、彼は私に、自分の親が名付けた本名と連絡先を教えてくれた。 その連絡先に、私は返信用の封筒を入れて手紙を送ったのだ。「今度はい つ来る。また色々と話がしたい。例の件は、やっぱり無理だったよ」

返信の手紙には、2人で交わした話の結果が簡潔に書かれていた。その意味することを思うと、ちょっと考え込んでしまった。

この同じ地球上に、同じ時間を共有しながら、異なった状況の人たちがた くさんいる。「もし、私が日本でなくビルマのカレンに生まれていたら・ ・・」

そう感じるのは、私のおごりであり、傍観者の立場を明瞭にあらわしてい るにすぎない。しかし、そう思わざるをえない何かを感じる。

私とボ・ジョーとの間には、どんな「縁」がこれから続くのだろうか。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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