フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/06/24 第7号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第7号■

「朝焼けの中に宙ぶらりん」

あざやかな紫色の夜明けだった。

薄暗いビルの谷間にうっすらと日が差し始める。
路肩には、ドライバーのいない10台くらいの白バイが停まっていた。
湿り気のある、くすんだ色 のアスファルトに気を取られていた。

ふと空を見上げると、いつの間にか空が輝いていた。
本当だったのだ紫に染まる摩天楼の姿とは。
ニューヨークの夜を照らす人工のネオンサインの光が行き届かない通りにも、日は差す。夜は必ず、明けるのだ。

5番街を歩くと、いつもその光景を思い出す。
『ティファニーで朝食を 』 を真似したわけではないが、そのままティファニーまで足を延ばし、ちょ っと気取って、ほんの一瞬、ショーケースをのぞき込んだ。
間もなく、街はざわめき、呼吸をし始めた。

その頃のわたしは、マレーシア出身のルー・アチャイとニューヨークのマ ンハッタンの街をさまよっていた。

1年弱住んだバージニア州ノーフォーク市の田舎町から、ニューヨークに やって来たのは、職探しのためだった。マンハッタンでは、仕事にあり就 けるのはそう難しくない、と聞いていた。とりあえず日本レストランで働 き、小金を稼ごうと思っていた。

青いペンを片手に、新聞の求人欄を必死なって見ていた。その横でルーが、 心配そうな顔をしていた。アタリをつけるところはいくつかあった。しか し、電話をかけるのは少々おっくうでもあった。

直接当たろう。そう思って5番街を中心に、日本レストランがたくさんあるアベニューや通りを散策してみることになった。飛び込みで、直接交渉をしてみようと思っていた。

それに、私は、マンハッタンの町を歩くのが好きになっていた。

その当時、アップタウンに近い、ジェファーソンホテルという小さなホテルの部屋を週単位で借りていた。ホテルといっても、薄暗く、かび臭い雰囲気が充満していた安宿で、キッチン付の小さな部屋をルーと2人で部屋をシェアしていた。

米国に始めてやって来たはその前年、深夜の飛行機でJ.F.空港に到着 した。初めての長旅、初めての米国で緊張していた。出迎えは、もちろん 誰もいない。

飛行機の中で知り合った日本人とタクシーをシェアして、42丁目にある グレイハウンドのバスディーポにたどり着いた。お金を節約していた当時、 米国に到着したその日に、ホテルに泊まることなど考えていなかった。

今考えると無謀なことをしたものだ。しかし、4年間、新聞配達をしなが ら、必死でためたお金だった。無駄にはできなかった。気負っていた私は、 誰にも世話にはなりたくない。そんないきがっていた若造だった。

それほど英語を話せるわけではなかった。もちろんバスディーポでは右往 左往してしまう。なんとかバージニア行きのバス乗り場にたどり着いた。

だが、周りにいるのは、枕や毛布を持って、静かにバスの時間を待つ人たち。私と同じ南へ向かうバスに乗り込むのは、黒人ばかりだった。 あまりにも強烈な印象だった。

ノーフォークは、いや特に私の住んだ地域は、黒人の地域だった。私にとっての初めての米国は、それこそ「黒いアメリカ」だったのだ。最初の半年間、 一緒に生活したのも黒人たちの中であった。

それから10ヶ月後の1986年、ニューヨークにやってきたのだ。新し い姿の米国の姿を見て、感動した。これこそが、いろんな人種と民族が混 じり合った米国なのか。

本で読み、映画で見た米国なのだった。新天地にやってきた感動でもあっ た。元気いっぱいに歩き回った。

毎日、毎日歩き回った。仕事探しは気にはなったが、ただただニューヨー クの空気を吸うのが楽しくて歩いた。幾度となく、ホテルからミッドタウ ンをやり過ごし、チャイナタウンを通り抜け、マンハッタンの最南端まで歩いた。

しかし、手持ちのお金も少なくなってきた。遊んでばかりはいられない。 実際、仕事探しは簡単だった。「雇ってやろう。明日からおいで」。そう言ってくれるレストランもあった。だが、その言葉は、私にだけだった。

「マレーシアの友人もいるんだけど、一緒に雇ってもらえますか」。そう訊ねると、「いやあ、日本語は話せるのかい?。だめか。それは困るなあ。 日本語が話せないと・・・。」

危惧していたことだった。英語はネイティブ並に話すことのできるルーだ ったが、日本語は、からっきしだ。

二人でニューヨークで一緒に働こう。そう言って、バージニアを後にしたのに。しょっぱなからこけてしまった。その後、日本レストランを2件ほど周ったが、どこもルーを雇ってくれそうになかった。

「大丈夫、まだ当たってみよう」。落ち込むルーにそう言ってみたものの、 無理なことは分かり始めていた。「もういいよ。やっぱり国に帰ることにするよ」。そう言い切ったルーは、そういう為に、何かきっかけが欲しかったのかも知れない。

それから1週間、二人は毎日歩くことで日々を過ごしていた。他に何をしていたのか、あまり記憶に残っていない。それからしばらくして、ルーは マレーシアへと戻ることになった。

しかし彼は、もう2度と米国に来ることができないかも知れないと思い、 シカゴにいる友人に会いに行くことにした。私はニューヨークが気に入り、 もうしばらく留まることにした。

シカゴへ向かうルーを、バスディーポに見送りに行った。地下のバス乗り場は、相変わらず沈鬱な雰囲気を醸し出していた。もしかしたら2度と彼 とは会うことができないかも知れない。そう覚悟していた。

ちなみに、ルーの前歯は4本ともない。入れ歯をしている。喧嘩をして、叩きのめされたせいだ。ピストルを突きつけられたこともある。背丈は、165cmくらいの華奢な身体。彼は4年間、異国の地で、一人生き抜いてきた。負けん気は強かった。

その当時の私たちの周りには、「黒人」という劣等感をむき出しにして、 不平不満ばかりをいう人たちがおおぜいいた。しかし、自分の道を切り開 こうと、積極的に動こうとするヤツは少なかった。

また、黒人が白人、プエルトリコ人、アジア人を差別していた。ルーはそのことをはっきりと指摘し、口に出していた。何かあると、こちらが、 「もうやめてくれ」というくらいという勢いで、自分よりも遙かに体格の良い黒人に向かっていった。

プライドの高いヤツでもあった。また、バスケットが好きだった彼はよく、ストリートバスケットに飛び入り参加していた。背の高い黒人に交じって 気持ちのいい汗もかいていた。

私は、慣れない生活環境、理解できない生の英語、財政的な不安など、胃の痛くなるような生活を毎日続けていた。私が寮生活で精神的にグロッキ ーになったときに、手助けしてくれたのはルーだった。

その時、精神的に、身体的にもとことん疲れ切っていた。そんな私を支えてくれたのは、彼だったのだ。ハウスメイトとして迎えてくれた。私に気 をつかわせないように、さりげなく手をさしのべてくれる、そんな気配りのヤツだった。私は本能的に、彼の持つ優しさに心引かれていた。

シカゴ行きのバスの発車時間が近づく。別れの握手をした。おそらく彼も 2度と会えないと思っていたのだろう。バスに乗り込む直前、私の方に振 り向き、'catch you later!'と明るく笑った。その笑顔は今も忘れない。

翌日、いつものようにマンハッタンの街を歩いてみた。大きな喪失感があった。たった1年足らずのつきあいだったが、私のココロに大きな足跡を 残したヤツだった。

取りたてて劇的なエピソードがあるわけではない。また写真には全く興味 がなかった当時、彼の写真を一枚も写していない。しかし彼の面影・・・ 入れ歯を入れてないときのくしゃくしゃな顔と、一人寂しそうに自分の部 屋窓から外を眺める彼の横顔・・・は、私の記憶にしっかりと残っている。

そんな二人を結びつけていたのは、なんだったのだろうか。

将来への不安であった。どうなるか分からない。何をしていいか分からな い。いったいどう生きていったらいいのか分からない、漠然とした不安を 抱えていた。そのことだったのかもしれない。
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   やりたい事がやれない時期は
   本当の夢が見つけられる絶好のチャンス
   やりたい事が何でもやれる時がくると
   人は社会の流れや
   手ごろな娯楽にごまかされて
   なかなか夢が見えにくくなるから

   だからつらい時期は
   夢の育成期間だと思って
   頑張ってください

  (『ちびまる子ちゃん』NO.4 P.132「夏の色もみえない」)

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彼のいないニューヨークの空にも太陽が昇り始めた。私の切ない思いを裏切るかのように、何事もない、新しい日々が始まった。

どんなことがあっても日は昇りそして、沈んでいく。それは変わらぬ自然 の営みの一部なのだ。太陽は何があろうと昇る。ゆっくりと動いていたの だ。そう気づくには、あまりにも時間がかかりすぎた。

太陽が動いているのではなく、自分が動いていることに、だ。

今でもよく夜明けの太陽を拝む。そう、この原稿を書いている、まさに今、 陽が昇ろうとしている。彼と別れてからマレーシアにいるはずの彼に何度か手紙を出した。もちろん、返事は返ってこなかった。それは分かってい た。

追いつめられたように自分の生き方を探していたあの頃。しかし、その不安感がどれほどのものだったのか思い出すことを、今はない。自分の気持 ちに正直になろうとする、そのことにエネルギーを注ぐことに精一杯であ る。

「宙ぶらりん」だったあの頃の方が楽しかったのかも。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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