フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/10/03 第11号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第11号■

「忘れ得ぬ友へ」

「結婚しました」
ビデオテープに同封されていた手紙には、手書きでそう記されていた。
「これで一区切りがついたな」
自分の思い込みかも知れないが、ちょっと肩の荷が下りたような気がした。
手紙を送ってきたAさんも大変だったんだな。手紙の文面を何度も読み返 しながら、一方的な思いこみをしていた私の方こそ反省しなければならない。
そう感じてしまった。

東京に住むAさんにこの3月、タイの知人から送ってもらったビデオテー プの複製を頼んだ。簡単な作業だが、あえて彼女に頼んだ。

そのビデオには、一人の友人が映っていたからだ。ビルマの「カレン民族 解放戦線」に義勇兵として参加し、その後、違った形でビルマのカレンに関わった彼の姿だった。

その友人について以前、新聞で書いたことがある。
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日本人ゲリラ
―放っておけないから闘う―

うわさに聞いていた西山君と初めて会ったのは、マラリアがまん延するビルマ(ミャンマー)・タイ国境のジャングルの中だった。

ビルマの先住民族・カレン族取材のために日本で情報収集していたころから、武器を持って戦闘に参加している日本人がいることは聞いていた。ただの軍事オタクじゃないの、と言う人もいた。

現地に入り、ビルマ軍事政権に抵抗して闘うゲリラ勢力の司令部に寝泊まりして数ヶ月、彼の名前を自然と耳にするようになった。そしてある日、前線から帰ってきた西山君を目の前にした。

「どうも・・・・・」

最初に交わしたのは、そんな言葉だった。何かよそよそしい。 無理もない。彼だって、こんなジャングルの中で、ヒゲぼうぼうの日本人と出会うなんて夢にも思わなかったに違いない。

しばらくはお互いに警戒していたが、狭い司令部の中に逃げ場はない。その日のうちに色々と話すようになった。

「そうですか、昭和30年代生まれですか。自分も、自分の友人も、日本を出て好きなことをしているのはほとんど30年代生まれですね。みんな同類ですね。関西出身ですか。それも同じですね」

話をする中で、彼がジャーナリストに対してあまり良い感情を抱いていないことがわかってきた。取材するだけして、後 で何の連絡もしてこない人が多いからだという。

しかし、ジャングルの中で一人生活を続ける私に対しては、 悪い印象は持っていないようだった。

うわさ通り、彼は武器を持ち、戦闘に参加していた。しかし、 彼は強調して言った。「自分はお金をもらって戦闘に参加する傭兵でも、戦闘好きの武器オタクでもない。

友人であるカレン人の置かれている状況を知れば知るほど放っておけなくなってきたんだ。ボランティアなんだ」

静かに語る彼の表情は、真剣そのものだった。実際、彼は戦 闘だけでなく、移動診療隊員として、医療設備のない山深くに住むカレン村民に薬を届けるといった活動も続けていた。

日本には数ヶ月に一度帰り、活動資金を稼ぐために建設現場で働いたり、引っ越しのアルバイトをしたりする。慢性のマラリアにかかっている彼は、年に何度か発熱して寝込んでしまう。だが、この活動をやめようという気はないらしい。

これからもずっと、そうやって暮らしていくの?
彼に対して、それはできない質問だ。
それぞれの「On the Road」なのだから。


<写真キャプション>
・襲撃に備えるカレン兵 ビルマ・カレン州で(97年7月)
(『朝日新聞』大阪本社版 夕刊 1997年7月3日)
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昨年7月3日付「日本人ゲリラ」で、ビルマ軍事政権に抵抗するカレン族の義勇兵として紹介した西山孝純さん(当時3 2)が11月、マラリアのためタイで亡くなった。
現地で出会い、親しかったフォトジャーナリストの宇田有三さんに、生前の活動ぶりを伝えてもらった。

<日本人ゲリラの死>
昨年11月、ビルマ・カレン族に日本人義勇として戦闘に参加していた西山氏の訃報を受け取った。

一時帰国していた東京で、慢性のマラリアを再発させたが、 「熱帯病の治療は、タイの方が進んでいる」と、弱った体で日本を発った。その後、現地で肺炎を併発させ、タイ・バンコクの病院で息をひきとった。

彼は、カレン族との出会いを「成り行き(縁)」だったと話 していた。

大学を中退し、冒険心を抱いて東南アジアを回っていた20代半ば、彼が出会ったのは、半世紀に及ぶビルマ辺境の武装抵抗闘争であった。 

最初は、戦場という強い刺激のある場に、生き甲斐を求めただけだったのかもしれない。だが、カレン族の自由を求める戦いに参加するにつれ、彼はカレン族を深く理解するようになった。

歴史から忘れ去れた民族の戦いが目の前あったのだ。「カレン族というだけで略奪され、強姦され、果ては殺され続けている」

それを放ってはおけなかった。また、若い彼は知りたかった。 カレン族が大きな暴力に屈することなく、どうして49年間 も闘ってこれたのか。

彼がそこで見たものは、自由を求める人の力強い姿であり、助け合う人間同士の優しさだったようだ。 

タイ・ビルマ国境のホテルに滞在中、取り立てて用事もないのに、よく彼から電話がかかってきた。体力と気力の限界の最前線から町に戻ったとき、妙に人恋しくなる。

自分もそうだった。その気持ちを分かち合える人は、経験した者同士でしかできない。平和な町を見ていると寂しさがこみ上げてくる。今、思うに、私は彼とその寂しさを分かち合 えていたようだ。

対外的には義勇兵士としての顔を表に出していたが、カレンのためにさまざまな仕事をこなしていた。日本に戻ると、建設現場や引っ越しのアルバイトをしてお金をため、カレンの人たちが必要とする医薬品を買ったり、子どもたちのためにおもちゃや文具品なども買い揃えていた。

難民のお米を買うお金を都合するため、日本の援助団体を回ったりもしていた。ここ数年は、戦闘に参加するより、カレンの人たちと移動診療隊を組織して、山深いカレンの村に入っていた。

実戦に参加する体力がなくなってきても、自分にできること を精一杯やり遂げようとした。

「村には入ってくれるな、カレン民族同盟に関係する者が村に来ると、それだけでビルマ政府軍から略奪や虐待を受ける」

医薬品を持って、苦労して山越えをしてたどり着いたカレンの村で、村長から言われた その言葉を聞いた彼は、怒りを通り越して悲しんだという。

カレン民族のために命を失った多くの戦友は何のために闘ってきたのか。自分も銃を持ってきただけにやりきれなかったという。

カレンの武装闘争で、命を落とした外国人義勇兵の中には日本人Iもいた。彼は、I が自分より先に逝ったことに負い目を感じていた。

I をカレンの101部隊に紹介したのも彼だと聞いている。 それもあって、どんなつらいことがあってもカレンから手を引くことができなかったようだ。

先に逝った多くの戦友に少しでも近い現地で仕事をする必要性を感じていた。

人は「死に方や場所を思い通りに選ぶこと」をできない。前 線に立ってきた彼は、敵・味方にかかわらず多くの死を見て きた。

それだからこそ、自分は「生きる場所と時間を選択した」と書き残している。自分を追い込んだ生き方だった。私は彼の具体的な行動に純粋さを感じる。

日本人を知っているカレンの人が真っ先にあげるのは彼の名前だ。現在のビルマ軍事政権に与する日本企業のことが現地で話題に出るとき、私には彼の存在が唯一の罪滅ぼしだった。

彼は、カレン族の実状を知ってもらうために、パソコンでホームページ作りに夢中になっていた。日本に戻ってパソコン の使い方が分からなくなると、時間に見境なく、真夜中であ っても電話をかけてきた。

深夜2時、3時であろうと容赦はなかった。今でも、夜遅くまで起きていると、彼からの電話が鳴るような錯覚にとらわ れる。

彼の遺灰の一部は、タイ・ビルマ国境、カレン州にもっとも 近いモエイ河に流された。

<写真キャプション>
・難民キャンプを撮影する西山孝純さん=タイ・メソットで(九七年六月一〇日撮影)
(『朝日新聞』大阪本社版 夕刊 1998年2月5日)
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11月6日。彼の4度目の命日が近づく。生存中の彼にはさまざまな人物 が接触してきていた。

仕事上のつき合いもあったろうし、個人的に仲良くなった人も大勢いた。 97年の納棺時には、交友関係の広さを物語っていた。

しかし、翌年からは少しだけ寂しい集まりになった。彼の墓や実家を訪れる者は極端に減った。そうか、あの人も来ないのか。そんなに簡単に忘れてもいいものだろうか。寂しさを通り越して、悲しみさえ覚えた。

しかし、各人、それぞれに事情があるだろう。私はそう納得させた。でも どこか、釈然としなかった。

それでも98年には、彼を慕っていた人は集まった。東京で雑誌を出しているB氏やフリーランスフォトジャーナリストの大御所C氏も顔を見せた。

彼の後を引き継いで義勇兵をしていたDもいた。彼から話を聞いていたAさんとは98年、初めて会った。

さらに、それから1年が経過した99年、彼は過去の者として忘れ去られようとしていると感じた。命日の前後、彼のもとを訪れたの数はさらに少 なくなっていた。

私のようにこだわり続けるのはおかしいのかも知れない。しかし、彼が関わり続けたビルマのカレンの状況が変わらない限り、私は一年に一度、現地を訪れ、墓参りをする以外、彼を偲ぶ方法を思いつかない。

そして、彼の実家を訪れるたびに感じる、彼の父親と母親の無念さを忘れ るわけにはいかない。

石川 文洋氏は、『戦場カメラマン』(朝日文庫)に記している。
「人間は孤独であると思う。人の死も、ごく近い肉親以外は、時がたてば記憶からうすれていく。死とは全く寂しいものだと思いながら、それなら自分に妥協しながら生きているということが素晴らしいのか−ベトナム仲 間の遭難にあって、私には人生がわからなくなるのである。
(『週間朝日』1971年2月26日号)

その通りだった。

彼の実家に飾られている写真の一枚には、彼とAさんとが仲良く写っている写真が飾られている。二人して楽しそうにこっちを向いている。

だからこそ、Aさんはもう来られなかったのだな。おそらく私よりも長く、 深く彼を理解しようとしていたからこそ、京都に来られなかったのだろう。

私はそう理解している。それでも、どこかで割り切れない部分があったの も事実だ。頭でそう分かっていても、心のどこかで、「でもなあ〜」って 思っていた。

昨年の11月、彼と知り合いの新聞記者を含め、彼の存在について噂だけは知っている記者と一緒に墓参りをした。

お父さんやお母さんから、ビルマの状況、カレンの状況を聞かれるのは辛い。また、彼の後を引き継いで、本来なら活動しているはずの「移動診療 隊」のことについて話をするのも辛かった。

久しぶりに東京を訪れた昨年春、東京駅構内の騒がしい喫茶店でAさんと 再会した。2年半ぶりだったかな。

ビルマのこと、カレンのことを話した。だが、ヤツのことについては話ができなかった。今、日記を読み返してみても、作為的にこのことに触れて いなかった。

私もどこかで彼のことを触れてはいけない、そうしてはいけない、そんな気分であったのかも。また、彼ほど純粋に「志」をもてずにいる自分を責め、引け目を感じていたのかも知れない。

そんなこともあり、残酷なことに、Aさんにビデオの複製を頼んでしまった。そうして半年。何度かメールのやりとりがあった。

私も折に触れ、「あのビデオテープの複製、どうなりましたか?」。そん なことで済ましていた。そうするうちに次の11月6日が近づいてきた。

もうそろそろという気持ちで、ビルマから帰国したこの9月、再度、問い 合わせの連絡をしてみた。「テロ事件」で慌ただしい中、返事があった。
「明日の朝、届くように手配しました」と。
さらにAさん自身、同じ報道に関わる人間として、急に脚光を浴びたアフ ガニスタンのことに言及しつつ、一貫性のないメディアを嘆いていた。 かつて彼がメディアの報道姿勢を嘆いていたように。

10月1日の深夜、そう、昨日の夜、ひとりで、戻ってきたビデオを見た。 久しぶりに彼の声を聞いた。また、重たそうに荷物を持って歩く彼の姿を 見た。性格は几帳面で器用だったが、生き方は不器用だった。

また、お世辞にも真っ直ぐな生活態度ではなかったしな。それに、回りのから見れば眉をひそめることも、2人してしでかしたことも思い出した。

おそらくAさんは、機械的にこのビデオを複製したのではないであろう。 きっと、彼の一挙一動を見たことだろう。声を聞いたことだろう。

そう思うと、なんとひどいことを私は頼んでしまったのだろうか。私は、 今は天国にいるだろう彼に、「済まないないことをした」、と謝った。

でもなあ。AさんはAさんで今、一つの区切りをつけ、新しい人間関係を スタートさせたんだな。お前とはもう関係がないのかもしれないなあ。

でも、いつの日かAさんと一緒におまえの墓参りに行けたらいいなあ。ビデオでお前の姿を見ながら、そんなことを思ったよ。おい、聞こえている のか?

今回は、本当に「独り言」になってしまった。

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来週10月10日(水)、大阪にてビルマの勉強会があります。その時、 彼の映った20分足らずのビデオを上映する予定にしております。
また、興味のある方は参加していただければ幸いです。
詳細は後日、http://bbs3.otd.co.jp/305663/bbs_index にてお知らせし ます。
また、彼自身が書いた本、西山孝純『カレン民族解放戦線の中で』 (アジア文化社、B5版・236ページ)の見本も持っていく予定です。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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