フォトジャーナリストの独り言

=================================================================
[フォトジャーナリストの独り言]
2001/10/15 第13号
=================================================================
-----------------------------------------------------------------
フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
写真を「堪能」されたい方は http://www.uzo.net/ へ。
1000枚以上のドキュメンタリー写真があなたを待っております。
ブログ上の日記は、ほぼ毎日更新しています →
-----------------------------------------------------------------

■第13号■

「敗者復活の回数券」

今年8月から、大阪に編集部がある月刊誌で連載を始めている。去年まで はテーマ毎に絞った単発のフォトストーリーだった。だが、今回からは、 もっと自分の視点に沿って、自分の考えるフォトジャーナリストの歩みを中心に連載を組んでもらった。

タイトルは、「フリーランスフォトジャーナリストのつぶやき」とした。 まあ、内容はこのメールマガジンの「独り言」と同じようなものである。 もっとも、編集者を通し、原稿と一緒に写真も3点ほど載せることから、 この「独り言」よりも、ちょとだけ客観的な体裁を整えている。

私の自分の仕事へのこだわりは、フリーラン、フォト、ジャーナリスト。
この3点に集約される。いろいろな媒体で紹介されるときは大体、フォト ジャーナリストという肩書きで紹介してもらうことが多い。でも、心の中では、フリーランス、あるいはインディペンダントと言い換えてもいいくらい、このフリーの状態にこだわっている。

個人的には、フリーランスという言葉に「自由」を「選択したのだ」とい う意味を持たせている。もちろん、その中には「自由のない状態も」選択 したことも含まれているのである。

「不自由、屈辱さえも受け入れる」、と覚悟している。だから愚痴など言わない−そう言い切ってしまうとちょっと嘘になってしまうが。

「フリーでなんとかやっていけて、いいですね」となんの脈絡もなく言わ れると、この「不自由の選択」を、なかなか理解してもらっていないと思 う。

まあ、自分自身、いつもこのここのところをきちんと整理しておらず、説明自体が堂々巡りしてしまい、ツボにはいってしまうからお茶を濁しているのも事実である。

企業内ジャーナリストであるか、ないか。そういう単純なことではないこ とだけは確かだ。

「自由は目に見えるものではない。自由に行動してみて初めて、『どこまでが自由か』その範囲がわかる。自由を実現する行動がなければ、自由の量もわからないものだ。自分で手を伸ばし、壁にぶつかって初めてその限 界がわかる。・・・『自由とは抵抗する勇気である』・・・。これを実感 できるためには、自由の実践が不可欠だ。抵抗する勇気がないと、自由はどんどん狭められてしまう」(北村肇『新聞記者をやめたくなったときの 本』P.144 現代人文社)

私がいつも抵抗しているのは具体的な組織ではなく、自分自身の生き方や甘さである。それでもいつも連敗しているのに、そのたびに、なにくそと 思い、いつも挑戦している。

挫ける、負けると分かっていても、「次こそは」、と思いつつ踏ん張って いる。それでも、「あ、また負けた」と思うことが続く。

そう、この文章を書いている今もそんな心境なのである。敗者復活の回数 券を持っている気分だ。

時には誰かを抱きしめ、「あ〜、もうやめたい!」、って言いたい。そう 思うこともよくある。身も心も不安定が日常化している。

が、やめるのはいつでもやめられる。その度胸がないだけだ。

フリーランスとして仕事をしていて、生活の収入は、この不安定な仕事に かかっている。5年ほど前まで、アルバイトで定期収入を確保していたが、 いまはほとんどアルバイトをしていない。

もちろん、今の仕事だけで喰えているっていう意味ではない。かなり、リスキーであり、偉そうなことは言ってられないことばかりである。

いつも自分の思いや「志(こころざし)」と、生活との天秤ばかりである。 それもど真ん中の支柱が揺れる天秤ばかりだから、なおのことやっかいだ。

やっかいと言えば、お金のやりとりも煩わしいことの一つである。あらか じめ、原稿料や予算が決まっている仕事であれば、それほど困らない。だ が、フリーの請け負う仕事は、いつも値段が決まっているとは限らない。

「どのくらいお支払いすればいいのですか」。そう尋ねられると、いつも 答えに窮してしまう。答えは、その仕事の質、相手の懐具合によるからである。単純に時間計算できない、数字化できない。

一枚の写真に3000円という値段を付けるか、30000円という値段を付けるかは難しい。基準がそのときどきで変わるのだ。また、比較対照 する個人的な前例もあまり持っていない。

講演も同じこと。3時間の講演を無料ですることもあるし、1時間を5万 円以上ですることもある。

小さな集まりで話をしたときなど、このお金を受け取っていいのだろうか。 考えてしまうこともある。しかし、フリーでやっていて、生活がかかっている場合は、自腹を切るのにも限界がある。その程度の具合をいつも計りかねている。難しいもんだ。

さらに、自分の関心のある企画取材と発表を主な収入源としているからこそ、悩んでしまうのだ。本来なら正当な対価を求めたいのだが、依頼する側がいつも十分な予算を確保している訳ではない。

なんかいつも、金のない者同士の間で少額のお金がまわっているような気 もする。

それでも、最低限、自分のポリシーに合わない仕事はしなくて済む。したくない仕事をしなくても済む。プライドを失う仕事をしなくてもいい。それだけである。

米国で学んだ写真の授業では、著作権やマーケティングの授業もあった。 その授業を担当するインストラクターはちょっとやり手だった。

いかにも「時間は金だ!」というくらいに早口で、ときに何を言っている のか分からないくらいだ。でも、どのように自分の作品を売り込んだり、 値段を付けるのか。あるいは人脈を広げるのか、システマティックに教えてもらえてたと思う。

それでもやはり、人の不幸を取材の中心にしようとしていた自分にとって、 その取材結果に値段を付けるのに妙に違和感を感じるのだ。

詳しい内容を覚えていないが、それでも記憶に残っているそのインストラ クターの言葉がある。

「サービスの対価を求めるのに卑屈になる必要はない」

「こちらがプロとして、自信のある作品を提供して、誠実に仕事をしていれば、必要以上に妥協することはないのだ」

「作品の質に問題があれば、それはプロとして考え直さなければならない。 あくまでも商取引をするときには、自信を持って望むべし」

この考えには納得しても、他人の生きざまを商品化することにどうも抵抗 がある。本来ならそれをきちんと直視しなければならないのに、だ。

私は、取材相手に喰わせてもらっているのだ。そう思うこともある。プラ イバシーをグリグリとのぞき込み、人のため、人権のために報道・記録しておかねば。そういう大義名分から、一人の人の生きざまを犠牲に、食い物にしているのかもしれない。

人のためではなく、自分のために動いている自分を時に恥じる。「そんなヤツにフリーランスを自認する資格はあるのか」、と。

だから、物事を斜めに見る私は、人権や平和、愛や幸福など、大義名分を 口にする、さらに行動する人さえも斜めに見ることがある。

「人間本来は平等ではないのに。なんで偉そうに言うのだ」、と。まるで鏡に向かって言って吐かなければならないセリフだ。

今、あちこちで起こっている「アフガンニスタンの難民を救え」のデモは、 本来なら、救うことによって自分が救われているという視点が必要なのだ。

そういうスタンスがあってこそ、少しでも平等への道程が開かれるのに。 もっとも、なんら具体的な行動をしていない私は何も言う資格がないかも しれない。ただ、私は私のやり方で動きたいからなあ。

あれは1986年の夏、24歳の頃だったろうか。初めての米国滞在から 帰り、ホテルのフロントでアルバイトをしていた。その時、同じようにアルバイトをしていた同僚に牧師をしているAさんがいた。

Aさんも、米国インディアナ州から帰ったばかりで、生活のため、妻子を 養うためにアルバイトをしていた。12歳くらい年上だったろうか。

インディアナ大の大学院で修士号をとって帰国。いつかは自分の教会を持つのを夢ににしてアルバイトに励んでいた。その姿は、私には奇異に映っ た。

牧師とは神に仕え、世俗のことをから超越している存在だと思っていたの だ。Aさんにあって、自分の宗教観をちょっとだけ変えることになった。
「宗教の前にヒトがいた」、と。

Aさんとフロントの夜勤シフトが一緒になったときなどは、心ゆくまで話をすることができた。(その話の内容はよく覚えていないが)。

アメリカでの生活体験のこと、日本の学校集会では、見た目が美しいように整列させようとする、異常なまでに規律を求める教育制度の不自然さな ど。

またAさんは、ついついいい加減な仕事になりがちな私に、たかがアルバイトと言えどきちんとした仕事をするのが真っ当な道だ。そんな声を後ろ姿で教えてくれたりもした。

今思えば、何事にもひねくれた態度を(内心で)とり、不遜な考えを持って私に、Aさんは本当の謙虚さとはどういうものかも伝えてくれたようだ。

私は、物心ついたころから、自分で自分の生活環境を選ぶことのできない不自由な状況を心底恨んだものだ。いくら努力しても、変えようのない現実ばかりにぶち当たっていた。

ヒトの生まれ出る環境は自分では決められない。その絶対的な現実に完全に打ちのめされていた。自分の意志では選びようがないもの。自分の力ではどうしようもないのだ。

そう言う現実がありながら、それを無視して建前の結果平等主義を押しつけようとするこの社会。

社会的な強者は、その立場を徹底的に指摘されるまでは、その現実に気づくことはあり得ない。逆に弱者は、どうしようもないことがこの世にあると敏感に感じるのだ。

やっぱり納得できなかったのだ。人間は平等だという偽善的な話や教育に辟易としていた。人間に幸せなんかあるものか、と。その思いは今でもあ る。

そんな世界では愛や幸福論は、安らぎをもたらさない。あるとすれば、どこかで他人の不幸を踏み台にし、それに気づかぬまま安穏とする蜻蛉だ。 (なんかアジビラっぽくなってきたなあ・・・)

そんな見せかけの社会にずっと反発していたし(今も形を変えてそうであ る)そんなひねくれた思いから、物事を真っ直ぐに見ようとしていなかっ た。

もちろん、神や仏なども、結局は人間が作り上げたものだと思い、信じよ うとはしなかった。そんな私の前に、キリスト教の信奉者であって、しかも説教をする立場の人が身近に来たのだ。

Aさんもまあ完璧な人間ではなかった。チェックアウトのお客さんが並ん で忙しくなったときや、わがままなお客が来て、偉そうな口をきいたときなどは、やっぱり面白くないそうだ。

「そりゃ、私だって腹を立てますよ。相手のことを恨んだりすることもありますよ」。そう率直に自分の気持ちを話すAさんは正直な人だった。

人間的だった。なんとなく嬉しかった。そんなAさんに昔から思っていた 疑問をぶつけた。

「なんで世の中から戦争はなくならないのですか。なんで哀しみや不幸は 続くのですか」と。

「おそらくこの世の中から争い事や不幸はなくならないだろう。でもね、それを嘆いていても仕方ないんだよ。大切なのは、それをなくそうと努力 し続けることなんだ」
Aさんはきわめてリアリストだった。

自分自身もここ数年、いろんな人から問いかけを受ける。「なんでこんな にもうまくいかないのか。なんでこんなに苦しいのか」。私はAさんほど うまく説明できないから、つい単純に答えてしまう。

「人生なんて98%が苦しみや哀しみであり、残りの2%がまあ、そこそこの状態かな。そう割り切って期待しなければ、はかない期待を持って人 生を送るよりいいんじゃないかな」と答える。自分は、きわめて悲観主義者だな、こりゃ。

諦めることはいつでもできる。その勇気がないだけだ。

Aさんと出会う1年前、バージニアのノーフォークという海軍基地の町に約10ヶ月間住んでいた。生活範囲の95%は黒人社会だった。その時、 ひょんなことからアフリカから来たBと知り合った。人なつっこく、物腰 の柔らかな人物だった。

彼は統一教会の信者で、私に入信の勧誘をかけてきた。「一度、話を聞きに来ませんか」。そう言う誘いに、危険だと思いつつ、それでもやっぱり 興味津々で、信者が集まる家に行ってみた。

米国人、日本人、韓国人など12人ほど集っていた。それほどおどろおどろしい雰囲気はなく、逆に以上に明るい雰囲気を思い出す。まるでそこは別の太陽が存在する小宇宙であった。

英語での説明はよく分からなかったので、日本から来た男性が統一教会の原理を説いてくれた。同じ歳くらいの男性だったろうか。夜を徹して議論 したが、私には彼の言う話がまったく頭に入ってこなかった。

まあ、私もタフだったし、一歩も引かなかった。そんな議論の夜が何度か続いた。ある時、その日本人の男性の車でダウンタウンに足を運んだとき、 多くのホームレスを目の当たりにした。

米国の80年代の半ば、それも田舎の黒人中心の地方都市。失業率は高かったはず。
私は言ってみた。

「あのうちの一人でも、たった一人でも、住むところもない、食べものも ない状況から救い出すことができれば、あなたの話にとりあえず耳を傾けましょう」
「とりあえず、ひとりでも家に招き入れてください。そして、次にあなたの家に行ったときに誰かいることを期待しています」と。

あれから彼の家には行っていないし、誘いもかからなくなった。

ある時、マレーシアの友人ルーと車でバージニアビーチに遊びに行った。 国道を飛ばしていたとき、寒い中、道路にぽつんと座っている人影をちら っと見た。

あの日本の男性だった。信号待ちする車に一輪の花を売っているのだった。 いろいろと問題になった街頭の花売りの一つだった。彼を支えている信仰心は何なんだろうか。

あれからBとは自然と疎遠になっていた。1985年の12月頃だったろう か。久しぶりにBと会った。彼の車に乗ってハイウエーを走っていたとき、 ラジオから音楽が流れてきた。

we are the world だ。アフリカや世界の平和を祈るために、アメリカのア ーティストが、その日、同じ時間に、全世界の人と同じ曲を歌うというイベントだった。

マイケル・ジャクソン/ライオネル・リッチ/レイ・チャールズ/ボブ・ディ ラン/ビリー・ジョエル/シンディ・ローパー/ダイアナ・ロス/ポール・サイモン/ブルース・スプリングスティーン/ティナ・ターナー・・・。

そうそうたるメンバー( USA for Africa というチームを組んで)の平和への呼びかけだった。Bはその取り組みの素晴らしさを私に力説した。

「世界中の人がアフリカの人に為に心を一つにしたんだよ。平和に向かっ て・・・」。私の思考は宙を舞っていた。

その時、ほんの一瞬でも、世界中の人(の一部が)、平和を祈ったのだろ う。しかし、何も変わらなかった。

あれから15年後の今、「テロ事件」を機に、アメリカを中心にして平和を願うデモ行進がまた起こっている。

大きな平和が望まれるとき、私は目の前にいるたったひとりの人にさえ、 ココロを和ます一輪の花さえ差し出すことができない。すべての言葉が宙 に舞う。
-----------------------------------------------------------------
(c) Yuzo Uda 1995-2004
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
感想は宇田有三(info@uzo.net)まで
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓