フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2002/04/05 第22号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第22号■

「変わらぬもの」

写真は時代を撮す。「今」も撮す。でも、「変わらぬもの」を撮すことができるだろうか。

2002年の1月半ばから3週間、フィリピンの「スモーキーバレー(ごみの谷)」に入った。

かつて、東南アジアの貧困の象徴であったフィリピンのトンド地区。そこに広がっていた「スモーキーマウンテン」は1995年、フィリピンの対外的なイメージを払拭すべく閉鎖された。

しかし、それは同時に、ごみに生活の糧を得ていた人びと(スカベンジャー)の、生存するための手段を奪うことにもつながってしまった。

貧困に追いつめられ、ごみ捨て場で最底辺の暮らしをしていた彼らは、力ずくで追い払われることになった。

彼らの一部は、首都マニラの北20km、ケソン市郊外にあるパヤタス(通称「スモーキーバレー」)に生活の拠点を移していた。マニラ首都圏の吐き出すゴミは一日約6000トン。

そのゴミに約1500人から2000人の人が生活の基盤をおくようになっていた。

「スモーキーバレー」に足を踏み入れるとすぐ、今までと同じように、何の疑問も感じずに、精一杯働く子供たちの撮影にとりかかった。

ニカラグアでも、グアテマラでも、エルサルバドル、カンボジアでもそうだったように、目の前の現象に圧倒され、ただただ、シャッターを切っていった。

子供たちには罪はない。なのに、なぜこういう生活を強いられているのか。そういう疑問がずっと頭の中にまとわりついていた。この現状をどうにかして記録して、伝えねば。

そういう、今思うと傲慢な、極めて第三者的な完全な思い込みだけでカメラを握っていた。

この現実をどう伝えるのか。そのためにどういうイメージ作りをしたらいいのか。単に、ごみ捨て場で働くゆえに「汚れた姿」を撮るのではない。そこで働くのは、われわれと同じ人間だという意識でシャッターを切っていた。

しかし、ごみ捨て場=貧困という図式は短絡過ぎる。が。しかし、現実はそうなのである。私の思考はそこで止まっていた。なぜだか分からなかった。

なぜ、フィリピンに来ることになったのか。ほんの成りゆきだった。正直言って、フィリピンのごみ捨て場を意識して避ける気持ちがあった。

「ごみ捨て場」といえば、まさに誰もが「スモーキーマウンテン」に足を運んでいたからだ。それが故に、行く気がしなかった。みんながしていることを敢えてなぜ自分がしなければならないのか、と。

だが、昨年末、「スモーキーバレー」を題材にした四宮監督の「神の子」という映画を試写会で見る機会があった。

試写会後の質疑応答で、監督に聞いてみた。「フィリピン以外のごみ捨て場に行ってみて映画を作る気はありますか」、と。

監督の答えはこうだった。「私はフィリピンにこだわりたい。パヤタス(「スモーキーバレーがある場所」)のごみ捨て場以外を撮る気はない」と。

それを聞いて、とり立てて深い理由はないのだが、「じゃあ、8年間も、いわゆる途上国5カ国のごみ捨て場を見てきた私が逆に、フィリピンのごみ捨て場を見てみよう」、っていう気になった。

何も変わらないなあ。パヤタスのごみ捨て場で、そういう印象を受けた。風景も、においも、働く人の様子も、どこでも同じだった。ごみ捨て場はどこでも同じだった。

パヤタスで6カ所目だった。年月にすれば9年目。年月が変わろうが、地域が変わろうが、同じ状況だった。

現実は何も変わらない。それが今の社会の世界だ。単純に打ちのめされた。パヤタスに入ってすぐにそう思い、シャッターを切るのも億劫になっていた。

それでも写真を撮り続けていたのは、どんなことがあれ、自分の感情の起伏だけで、記録する、伝えるという仕事を放棄してはならない。そういう、ジャーナリストとしての考えだからだった。

そんな悶々としながらシャッターを切っていたときに出会ったのが、カティーボさん(61歳)だった。カティーボさんの笑顔は、私を救った。精一杯働いているのは、子どもたちだけではなかった。

ちょっと考え直して、あたりを見渡してみると、年老いた人も多く働いているのに改めて気づいた。肩の筋肉が盛り上がった、威勢のいい若者も大勢いる。

私は、カティーボさんの笑顔に魅せられてしまった。どうしてそんな笑顔ができるのか。皺だらけの顔。首をちょこっと傾ける。それが妙に惹きつける。目をそらさずに、真っ直ぐ射止めるような視線で笑いかけてくる。

パヤタスのごみ捨て場で働く人を支援する団体で働くIさんは言う。「ここの貧困の状況を考えると、もう笑うしかないのですよ。深刻に考えたら生きていけないくらい、ここの状況はひどいのです」と。

自分の苦しみ。親たちの歩んできた困難な道。将来の希望さえない子どもたちの存在。それでも生きていかねばならない。そんな生活なのだ。楽しく生きなければ、一体、毎日の生活はどうなるのか。もう笑うことしか残されていない。

パヤタスでの撮影に精神的に疲れて、3日間だけ、マニラの北西にあるオロンガポ市に休養に行った。オロンガポ市のスービック元米軍基地の近くには、知り合いのジャーナリストNさんが海辺にコッテージを借りていた。

海辺でノンビリと、好きな潮騒の音を聞きながら、持ってきたお気に入りの本でも読もうと思っていた。Nさんはフィリピン通で、独りでドキュメンタリーのビデオ製作に励んでいた。

偶然、Nさんの持っている本を見せてもらった。その中に、高岩仁さんというフリーの記録映画監督が書いた『戦争案内』というブックレットがあった。

日本の戦争にこだわった監督であった。これまでマレーシア、フィリピン、沖縄などについて、数々の記録映画を完成させている。

その『戦争案内』を読み進めていくうちに、監督がどういう視点でフィリピンのごみ捨て場を捉えているか、地に足着いた記述があった。

「上の写真(注:ブックレットには撮影風景の写真がある)はフィリピン、マニラのごみ捨て場で生活している人々を撮影するスタッフです。この現象を撮影して、『ここで生活している人々は悲惨な状況の中でも、人間らしく生きている。そして、その中で暮らしている子供達の目が輝いている』

というような捕らえ方で作品をまとめると、日本のマスコミは安心してこの映画を大きく報道します。そして、それがうまく出来ていれば、国内外の数々の賞をとって有名になって、制作費の回収も簡単になります。

しかし、『このように貧しい人が存在するのは、日本や、アメリカ企業が環境を破壊し、土地を取り上げ、人権を無視して安い賃金で仕事をさせ、莫大な利益を上げ、しかもその状態を維持するために、暴力を使っています(これこそが真実です)』と作品で描くと、マスコミはその作品を正確には紹介できなくなります」

それに加えて『この悲惨さを解決するためには、このごみ捨て場で生活している人々と、日本で過労死するほどこき使われている人々や、安い農産物が外国から”自由”に入ってくるので、大変な困難を強いられている人達が、国を越えて連帯して、このような社会の構造を変える闘いをするべきだ』と作品の中で訴えると、たちまち”マルクス主義者だ””赤”だとレッテルを張られて、すべてのマスコミから排除され、仕事ができなくな り、収入の道が絶たれてしまうのが、今の日本です。

しかしこれこそが今最も重要な真実だと、私は確信しています。」と書いている。

高岩氏の記録映画は、必ずしも偏った作品ではない。そういう評価を受けている。氏は嘆く。

「『教えられなかった戦争』シリーズも3作目の、沖縄編は、東京都心の新聞・テレビは全く載せなくなりました。完成したときに、2度プレス試写会を設定して、450人の記者たちに招待状を出しましたが、見事に一人も観にきませんでした。

しかも沖縄編はキネマ旬報のベストテンの第1位に選ばれたのに、まったく全国紙には紹介記事が載りませんでした。悔しいですが、結果はてきめんです。前の二作品に比べて、普及が半分にもいきません。このままでは次の制作の見通しは全くたたない状態です。」

しかし、この映画監督は43年間も記録映画カメラマンを続け、12年も『教えられなかった戦争シリーズ』を撮りづけている。

その志の高さに、砂浜に寝ころんでいた私は起きあがった。疲れている余裕なんてないのだ。何のために現場に立っているのか、自分に言いきかせた。

パヤタスのごみ捨て場は2002年7月に大きな崩落事故が起こった。数百人の人が亡くなった(今も100人近い人が埋まっている)。今あるパヤタスのごみ捨て場は、旧パヤタスのごみ捨て場のすぐ横にある。

カティーボさんの生い立ちが聞きたくて、また、おばあさんがどんな暮らしをしているのか知りたくなった。おばあさんの家に行ってみることにした。

私を家へと先導するおばあさんの後ろ姿は、ちっちゃかった。ひざ小僧まである長靴をはいて、ひょこひょこと、左右に身体を揺らし、がに股で歩く。背丈は私の胸くらいの、ちいさなおばあさん。

ごみ捨て場から家へは、すぐに目と鼻の先だった。東側の斜面を避けて、わざわざ回り道をする。どうして、って尋ねてみる。

「そりゃ、あんたはここは慣れていないだろう、危ないし、しんどいだろうから」だって。カティーボさんは、ずっとずっと頑強な私の身を案じてくれていた。

実際、カティーボさんの家は、旧パヤタスのごみ捨て場から10mくらいの所に建つ薄暗い家だった。家に入れてもらい、3時間ぐらい話を聞いた。12年もここに住み、ずっと働き続けている。

長寿国の日本では、61歳といえば、まだまだ働き続けることのできる年齢だ。しかし、日本とフィリピンを同じように比べることはできない。

「今の幸せかね。そうだね。毎日3食食べることができて、毎日働きに出ることができればいい。そりゃ、昔は、家族と一緒に暮らしたい、お金が欲しい、そんなことを思ったが、今はそんなことはどうでもいいんだよ」

話を聞きながら、ふと、この一人のおばあさんの一生について考えてみた。人間は、自分が生まれた時代の制約から逃れることは出来ない。いつの時代に、どこに生まれ、どのような人と出会い、生を終えるか。

個人の力で切り開くことができる部分と、そうでない部分ははっきりとある。また、人は、必ず生を終えなければならない。その冷酷な事実を受けいれなければならない。個々人の生命体は、どうあがいても有限なのである。

人は決して死を避けることはできない。逃れようのない現実なのだ。長生きすることだけが目的ではない。いつも死に向かって歩いているのだ。だからこそ、その間をどのように生きていくのか。そのことを常に念頭においておかねばならない。

そう、有限なのである。人の生は。

一人のおばあさんの出会いでそのことを再認識した。しかし、写真を撮るという仕事をしていなければ、常に現場に身を置く仕事をしていなければ、ここで私の思考は止まっていただろう。

どっこい、私は違うことを考えていた。

そう何も変わらない現実を、ずっと私は追いかけ続けてきたのだ。農地改革が進まないために田舎で喰えない。そのために地方から都会へ人が出てくる。そんな、フィリピンでも中米でも変わらない現実を考えていた。

3年前に訪れたエルサルバドルのことを思い出した。停戦後のエルサルバドルの状況を追うべく、94年、96年、99年とごみ捨て場に足を運んだ。そこには、何年経っても、変わらぬ現実があった。

第三者的には、傍観者としてはそう思うしかない。

しかし、である。人間の生には限界がある。紛争や貧困が1年経っても、何も変わらないということは、1年間、彼らは苦しみ続けているのだ。

何も変わらないのではなく、1年間分、いや、1日、1秒間状況は悪くなっているのだ。もしかしたら、明日変わるかも知れない、という夢や希望が、その瞬間ごとにつぶされていっているのだ。

苦しい生活が変わらないということは、苦しみを、それだけ余分に味わっているということなのだ。

誰が言ったのかわすれたが・・・「共感」とは、「自分の経験や価値観で相手の気持ちを推し量るのではなく、自分がこの人の立場だったら、世の中はどういう風に見えるだろうか」と考えることである。「相手の立場に身を置いて物事を考える習慣を身につける」ことである。

色々な現場を渡り歩き、取材慣れしてくると、ついつい、「どこも同じ状況だ、悲惨な状況はどこも変わらない」と思ってしまった。だが、ちがう。

変わらないとうことは、目の前にある現象が、単に悪いのではなく、さらに悪くなっていることなのだ。

1月から2月にかけてのフィリピン取材を終え、3月には韓国に渡った。元日本軍強制連行「慰安婦」のおばあさんたちの取材であった。

おばあさんたちはこの10年間、毎週水曜日、雨の日も雪の日も(95年の阪神大震災後を除いて)、日本大使館前で抗議のデモを続けてきた。

その抗議デモは500回目を迎えることになったのだ。その取材のためだった。

ニュースとしては、日本大使館前での500回目の抗議デモの取材だけでもよかったのだ。しかし、なにか釈然としないところがあった。元「慰安婦」についてはいろいろと言われているからだ。

抗議デモは賠償金目当てだとか、特別な組織に洗脳されて続けているのだとか、昔のことにこだわっていては、これからの韓日関係にとって良くないのだ、とか。

いったいどうしておばあさんたちは抗議デモを続けているのか、その本当のところを知りたかった。

元「慰安婦」のおばあさんたち9人が共同生活をしている「ナヌムの家」に住み込んでみることにした。日常生活を共にし、おばあさんたちが何を考え、感じているのか。そのことを直接知りたかった。

日本国籍で、しかも男である私は最初、気が引けた。しかし、知りたかった、聞きたかった。本当のところを。

「ナヌムの家」の世話をしている人に、外国人が住み込んで取材をするのは初めてだと言われた。しかし、それでも、同じ元「慰安婦」の取材をするなら、その場限りのシャッターを切ることで終わりたくなかった。

昔、日本軍に強制的に韓国から中国へ連れて行かれたおばあさんに話を聞いた。昨年、58年ぶりに韓国に戻ってきたという。58年目の里帰りだった。

苦労話をいくつも聞いた。「日曜日はつらかったよ、何十人もの男が来たからね」。男としてよりも、人間として情けなかった。枯れた涙が出た。

フィリピンで感じた、「相手の立場に身を置いて物事を考える」という取材姿勢は、ここでは空虚に感じた。頭で言えるほど簡単なことではない。

58年間の喪失した時間を向かう合うだけの力量は私にはない。韓国に戻ってきたおばあさんは、過去は過去としておけばいいという「今」の風潮に怒っていた。

「ナヌムの家」ができてから約10年目たっていた。「もっと早く話を聞きに来たら良かったのに。遅すぎるよ。取材の人はたくさん来たよ。いろんな人が話を聞きたい、って来たよ。写真もたくさん撮って帰ったよ。映画も作ったよ。でもねえ。変わらないじゃないの」。

そう聞いても、おばあさんの写真を撮る私は何者だろうか。

それでも、おばあさんたちは優しかった。「ご飯、ちゃんと食べた。お代わりしなさい」と声をかけてくれた。最初の1〜2日間をぎこちなく暮らす私に私を、日本人だとか、男だとか、特別視しなかった。

80歳を越えた今でも、自分の過去を取り戻すべく、自らの意志でデモに参加している小さなおばあさんたちがいる。

まるで自分たちの過去を取り戻すかのように、無関心という時代の風潮に耐えながら、「国家」という大きな力に立ち向かっている。

変わらぬ過去よりも、不正義に目をつぶろうとする「今」という時代に声を上げている。変わらぬものを変えようと、自らが動いている。変わらないという絶望感はそこにはない。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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