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[−提 言−]
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ビルマの軍政に厳しく対し、彼らに利益をもたらす営利行為をボイコットしよう!
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| 例えば1996年、97年は、外貨獲得に積極的な軍政が設定した「ミャンマー国際観光年」 です。しかし、残念ながら一般観光旅行者が首都を中心に廻ってこれる範囲からは、ビルマ(ミャンマー) の抱える大きな問題を伺い知ることは難しいのが現実です。しかし、 私たち訪問者を迎え入れるための観光整備のある部分が、強制労働や暴力的徴用によってまかなわれてきた事実は、 さらに拭いようもなく重大なはずです。観光客の振り落としていく金銭が、一部の経済的振興によって 国民の不満を封じ込めてしまう結果になれば、SLORC軍政権の安定と権益の確保をはかろうとする特権階級層の 自信を深めさせてしまいます。私たちに出来ることは多くありませんが、ビルマを観光旅行の目的地に選ばないこと、 ビルマが、現在進行形で信じがたい国家犯罪の横行している国であるという認識を持ち続けることは決して難しい努力ではないはずです。 |
| 96年7月、全日空は大阪・ヤンゴン直行便を就航させました。 月間1500人を越すようになったとも言われるビルマへの邦人旅行客の足を獲得しようというのでしょうが、 その多くは現在タイ国を中継するビジネスマンが中心です。なお世界的に日本の商魂こそが引き起こしてきた数々の事件も思い出されます。 特に戦後補償に始まった不透明で莫大な開発援助によって、26年間にも及ぶビルマ式社会主義、ネ・ウィン将軍の一党独裁支配体制が支えられた経緯からも、 問題の多い軍政の安定に、官民を問わず、日本国が貢献するのは危険なことなのではないでしょうか。 少なくない、ビルマの一般市民層にとって、このような企業進出は重大な犯罪幇助でもあるのです。 |
| 96年、日本テレビ系列の「進め!電波少年」で、「猿岩石」という二人組がヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するという番組企画が
大きな反響を呼んだ。お笑い芸人「猿岩石」の奮闘、番組の趣旨についてはともかく、同企画におけるミャンマー=ビルマ横断には 明らかに誤解の多い「ゴマカシ」があったことは間違いない。 辺境州では、反政府闘争を続けるゲリラも活発なため、外国人が陸路でタイから入国し、陸路でインドに出国することは軍政権も認めていないのだ。 日本TVはもちろん、世界のTV各局報道部が出来ずにいる試みをバラエティー番組が「やり遂げた」と思い込む人々の側にも問題はあるかもしれない。 がしかし、制作者側の無知、この時期に、この場所を扱った取り上げ方には、やはり大いに疑問が残るだろう。 さて、この問題を取り上げた理由は、同番組企画が、まったく今の日本社会のあり方を見事に反映していると考えられた点にある。 同番組は、おそらくあらゆるタブーを侵して現在に至る「当たり感」あるいは「自信」すら持ち始めているのではないか?。 彼らスタッフも、直接に大きな犠牲が降りかかるまで、次のさらに危険を冒した企画をナげられなくなっている。 批判の一方、これこそは、社会をナめきった場当たり・体当たり企画が支持されうる大きな理由でもあるのだとも考えられるが、 これは一言で言い表すなら「横着の限界」への挑戦ということになる。 これはとても危険な綱渡りなのだ。当たり前の社会が、自覚なく横着でいる、それが責任の在処が曖昧な普通の日本人通念の中に大きく拡がりつつあるというわけだ。 そして、ビルマの実効支配を固めようとする軍政を容認する世界も、この「横着」の犠牲の上に成り立っている。罪なき人々の罪、 野次馬の世界観に責任を問うことは難かしいが、軍政の宣伝に一役をかっているのは商人たちの営利追求であるとは言えるだろう。 なかなか好転しない国内景気に依然厳しい状態が続く日本経済界であるが、政府開発援助=ODA予算は年毎に増大しており、これを取りはぐれの少ない蜜と捉えて 利益にありつこうとする商社の暗躍は著しい。特に日本からビルマに対してのODAは、一切の議論を排して、こっそり閣議決定されたような格好で再開された。 これは、彼ら軍政には中国・韓国・アセアン各国からの投資もあるんだ、という外交カードに翻弄されて、 日本が官・民、総なし崩しの援助投資ビジネス戦争とも呼ぶべきものに参加させられたことを意味している。 より利益を上げる事がビジネスマンのつとめであるわけで、そこから恩恵を授かる社会もあるのだから、往々、仕方のない部分はある。 しかし、恨みを買うなりの理由を持つ部分で彼らビジネスマンは、その責任を負っていく自覚をもっているだろうか。ある日本の経済誌には、 ビジネス・リスクを負おうとしない政府のために日本のビジネンマンは、ミャンマー市場争奪に大きな損失を被ったとも書かれていた。この危急に至っても 「テロ攻撃は出来れば控えたい」などと言っているカレンのゲリラ軍隊がついに、あるいは一部の過激派勢力によって、本当のビジネス・リスクがもたらされたとき、 ヒステリックな悲鳴を上げて政府に、そして社会に泣きつく彼らの姿は想像に難くない。結局いつか我々の社会の何処かに、その責任の反動は押し戻ってくるのだ。 それでも、私たちは、ビルマの政情に照らして事態を注意深く見守ることが利口、得策ではないと思うのだろうか?。 さらに日本には、SLORC体制を積極的に支持する人々も少なからずいる。政・財界に巣くって生き残った旧大日本帝国時代の軍・財閥を中心とし、 彼らにとっての「日本」本位な営利至上主義集団だ。彼らが言い繕う「国益」とは本当はいったい誰の利益なのか。少なくとも私たちの多くは ソレを実感することが出来ないはずである。加えて軍政と呼ばれるSLORCなのだが、私に言わせれば彼らは軍人などではない。ホテルにカジノ、ゴルフ場、 レストラン、ディスコなどから利益を得て経営に関わる者は商人以外の何者でもないのだ。また彼ら、両者の似通ったところは、 その巧妙な一部特権階級に対する利益誘導のあり方にも見られる。これらは、ビルマの支配体制の正体が軍事政権ではなく、政権担当者が私兵を飼い暴力を背景にした 「ビジネスマン(営利追求者)」、つまるところ「ヤクザ政権」であるということではないか。 このような現実は私たちにとっても縁遠い話ではない。個々の人間はかよわく、一方モノは溢れ満たされて価値観が多様化している現在、 自分自身という者が見えにくい時代にあって、多くの警察官・自衛官に志願する若者は「法」と「命令」を、社会秩序を守る柱と信じて立つ。 しかしながら、それらは支配者たちのあり方次第で、脆くも裏切られやすいものだという事を「ビルマ」はハッキリと表しているのだ。 ビルマは特に1989年以降、重大な人権蹂躙国として国際社会の非難を受けてきたが、経済政策面の柔軟路線とは裏腹に、兵器大量購入と武装拡大、 国家的都合による厳しい徴用や強制労働など、なにひとつ、明確な回答・解決をみた事柄はない。しかも、そのことが特に日本人には疎遠な話題であり、 まったくといっていいほど理解されていない。村人が政府軍から受け取っている無数の脅迫状をとってみても、いったい日本のマスコミは何を伝えてきたというのだろうか。 そしてタイとの国境に吐き出される難民は今日も増え続けている。軍政の欺瞞と偽装を、「発展途上国のぎりぎりの努力」などと評価してしまってはならないはずなのだ。 そして今ひとつ、真実を透けて見る事の難しいビルマをめぐる問題の中で、この際、ハッキリさせておきたいと思う事がある。 現在のビルマをミャンマーと呼んで統治支配する政権集団を、是と認めるか、あるいは徹底拒否するのかという覚悟についてだ。確かに、 少数民族の抵抗組織が、蔓延する互いへの猜疑心や戦争への疲れから脆弱になっていることは事実だ。 アウンサン・スーチー女史も強い意志で民主政実現に向けて一人頑固に気を吐いているものの、 人権を問題にする国際社会すらミャンマー市場への投資景気を押しとどめる力はない、のかもしれない。 しかし、カレン族は半世紀近くにも渡って、ボ・ミャ将軍という一人の将軍のために戦わされてきたのではない。少数民族軍の分裂・反乱も伝えられるが、 そういった勢力が規模に関わらず、現在のSLORC軍と緊密な提携協力の上、共に行動している事実は明白なのだ。すなわち、現在もビルマにある明確な対立構造は SLORC容認派と対決派の二つだけに過ぎないのだ。カレンの総司令部マナプロウ陥落から中央の権威が失墜しカレン解放軍を離れた兵士もいるが、一方、 「政府の和平案に誠意ナシ」として政府軍隊との熾烈な武力衝突を再開したカレニ民族軍に合流する者もいる。 そもそも、「対話で帰国を即したが応じない」という理由から、隣国に侵入しタイの警察官を殺害して難民キャンプを焼き払った軍隊の何処に正義を認められるのだろうか?。 このような襲撃は規模の大小はともあれ、誘拐や暗殺にも形を変えながら、和平交渉の進む現在でも山間の村落で静かに進行中なのだ。 武力抵抗を捨てれば、平和がやってくるなんて言うのは危害の及ばないところにいる人々の寝言にすぎない。今も、調味料すらなく、 米粒だけで、その日を繋ぐ強硬抵抗軍部隊は山中に兵力を残している。村人は週に一度、一匹の鶏を最寄りにいる30人ほどの部隊に分け与えてくれるという。 もちろん補給の目処も立たない戦闘に勝機はない。それでも政府軍がやってきたら避難民をタイヘ無事に移動させるために交戦するという兵士たちは、 雨の中で突撃銃を肩に、「最後まで降伏はしない」と笑っていた。 今年、[ブレイブ・ハート]という映画がアカデミー賞のオスカーを五つさらった。メル・ギブソンが監督・主演した長編で、13世紀の英国支配に抵抗した スコットランド自由軍の闘いを題材にした映画だ。映画批評家の意見は様々あるだろう。がしかし、 このような映画が評価される事は、すなわち人々が心の底で、自らマネは出来ないにせよ、主人公のゲリラ戦士、 ウォレスに共感し声援を送ったことを意味しないだろうか。何より、私に辛かった事実は、この映画が叙情的に脚色されたものである事が理解りすぎた事だった。 つまり、自由を貫いて死んだウォレスは、私の周りに、全然、映画的ではない人生を生きながら、数多く存在していたであろう事を感じたのだ。 |
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TEXT BY TAKAZUMI NISHI |