PAGE OF INTRODUCTION OF THE KAREN(/日本語)


 ビルマの軍事革命政府は、民主化を要求する市民、自己の尊厳と平和を保証された暮らしを求める少数民族らへの弾圧を今もなお続けています。その結果、タイの国境地帯に追われた「移動せしめられた人々=難民?」の数は、10万人に迫る勢いで今なお増加しています。
 DKBA(民主カイン仏教徒軍)は軍事政権SLORC(国家法秩序回復委員会)軍と協力し、1995年来、その混成部隊は幾度となく、国境を越えてタイの難民部落を襲撃しました/写真=左。
 難民襲撃には迫撃砲など重火器も使用され、近くの土手からは、数件のバラックに風穴を開けたことを容易に想像させる対戦車ロケット砲弾が発見されました。焼失した家屋は二千戸を越えます。
 1995年暮れには、少数民族反政府軍KNU(カレン民族同盟)と軍政SLORC側との交渉が始まりましたが、その同じ日に、政府軍隊は辺境に住む非武装のカレン族部落を襲い、医薬・食料を収奪して村の一部を焼き払いま した。

ビルマ政府軍からの捕獲兵器ほか、カレン民族の自由戦士たち。

 ビルマは東南アジアと呼ばれる地域の西端に位置し、二十を越す多種多様な民族文化をあわせもった国です。そのビルマにおいて、カレ ン民族は少数民族の中でも大きなもののひとつに数えることが出来るでしょう。 彼らはビルマ東部の山岳地帯、イラワジ川デルタ周辺を中心に、その土地を頼っ て生活しています。
 さて、しかしながら今日、七万人を遥かに越えるカレン民族が、人々を 銃剣のもとに支配する国軍による組織的迫害を受け、国境を越えてタイ国へ、難 民として、その土地をおわれてい ます。歴史的にビルマ民族は、その中心統制 のもとに他民族を同化・吸収・あるいはカレン民族を根絶させようとしてきたの です。
 1960年代の半ば、ビルマ軍隊は、「ピャリピャ(四殺)の名で知ら れる作戦を計画しました。これは、反政府分子と地方の村人を繋いでいた食料・ 財政・情報・補給の四つのラインを断ち切るという単純なものでしたが、山地カ レン民族が父祖の土地として敬う東部山岳地帯を中心に押し進められ、絶大の破 壊的効果をあげました。
 ビルマの軍事政権は最悪の人権破壊国家として避難されてきました。例 えば、少数民族に対する軍事攻勢のため、村人たちは、軍の戦略的補給に厳しい 徴用を受けています。あるいは、人間地雷探知機として国軍部隊の先頭を歩かさ れ、また、その何人かは戦場の銃撃戦の犠牲にならねばならなかったのです。加 えて、村人たちは、ビルマの安定と統制のため、という理由から、メルギやタボ イの鉄道での観光資源開発の現場などにも強制労働力としてかり出されました。
 土地をおわれて逃げ出した人々はタイ・ビルマ国境の難民キャンプで暮 らしています。これらの難民キャンプはタイ国、北はメホンソン、南のカンチャ ナブリまで、数百キロにまたがる国境地域に分布し、なお、タイ政府・国連高等 難民弁務官事務所=UNHCRからも難民としての承認を受けていません。
 カレン民族の源流・発祥はチベット高地民族にあり、時間をかけて中国 雲南を渡りサルウィン川・イラワジ川から現在のビルマに下ったと言われていま す。一説には中国西域からゴビ砂漠を渡ったとも伝えられます。その一部はタイ に住み着き、イラワジ・デルタとは対局に位置するモルメインからテナセリウム 地方、メルギ・タボイといったアンダマン海沿岸地域へと拡がったということで す。また、カレン民族は元来、精霊信仰者でしたが、ビルマ民族の席巻、イギリ スの宣教師たち、タイの仏教の影響を受け、現在の多くは仏教徒・キリスト教徒 に分かれます。
 1886年のビルマ革命の後、当時のビルマを植民地支配していたイギ リスは、ビルマ民族を押さえ込むために、迫害されていたカレン民族を警察官・ 官史に登用し、あるいは、東部サルウィン・山岳地方の開拓民として利用しまし た。カレンの民族意識は、第一次世界大戦のあと、第二次世界大戦に至る時代、 大英帝国から「ビルマ」を奪った大日本帝国軍に対する地下抵抗軍、組織化の中 で、イギリスによって育まれたのです。
 しかし戦後、イギリスは、少数民族との問題に妥協できる解決策を見つ けられないまま、ビルマに独立を認めました。もちろん、カレン民族はデルタの 圧倒的ビルマ民族の中で、政治的に自決権を求め、カレン固有の文化と言語を護 ることを要求しました。
 しかし、1947年憲法の制定後、自治州はおろか、カレン民族の要求 は完全に退けられてしまったのです。ロンドンへのビルマ使節団にカレン民族は 欠席し、その生存を賭けた反政府軍事活動が始まることになります。2月にはカ レン民族同盟=KNUが結成され、カレン民族防衛機構=KNDOが結成された のは同年4月のことでした。
 カレン民族の暴動はビルマ全土に拡がり、ラングーンから僅か15キロ に迫った抵抗軍部隊との衝突で、ついに大きな山場を迎えました。1949年3 月、カレン民族は東部州の独立を宣言し、トォングーをその新・首都に定めまし た。しかし、この勝利も長続きはしませんでした。カレン民族抵抗組織の指導者 ソウ・バウジーがビルマ軍部隊の待ち伏せを受けて暗殺されてしまったのです。
 そして1955年、ビルマ軍はカレン州の古い州都、パプンを再奪取し ます。その後も一進一退の激しい攻防は続きますが、56年には、ボ・ミヤとボ ・ヤン・ナインにより、新たな政党、民族解放委員会=NLCが生み出されまし た。
 さらに1974年、ボ・ミヤ将軍はカレン・モン・チン・シャンら、各 民族の抵抗少数民族組織結集のための会議を開催します。これが76年に、総合 的にビルマ民族をも含めての平和的ビルマ連邦国家をゴールとして目指すことで 結成された民族民主戦線=NDFの始まりでした。
 膠着したビルマの政治情勢が激動的変化の兆しを見せたのは、民衆が民 主政府を求めて立ち上がった1988年暴動でした。そして、その民衆を銃下に 組み敷いた国軍革命政権の迫害を国境に逃れた民主化運動グループと少数民族抵 抗軍の結束は1988年11月、ビルマ民主連=DABを結成させます。
 しかしながら、カレン民族同盟=KNUの命運が決定的に下降線を下っ たのは1995年の大敗にありました。カレン軍隊の首府は、ビルマ政府軍の徹 底した大物量軍事攻勢を背景に、民主カイン仏教徒軍=DKBOという謎の軍隊 の包囲網に落ちてしまったのです。彼らはKNUの指導部統制の宗教的不公正を 糾弾し、カレン解放軍から離脱・反乱したと言っています。実際にはビルマ政府 軍のカレン首府マナプロウ攻略の鍵として、彼らの手で編成された軍隊だったこ とは言うまでもありません 。
ビルマ政府軍は化学兵器も使用している。

 ビルマ政府軍とDKBOは早くに手を結び、組織的にタ イへの越境攻撃を行い、難民キャンプや一部タイ国市民までも標的にしました。 このような暴虐行為は、カレン難民の帰国を促す目的で行われた、などと正当? づけられて、難民部落のリーダーを中心とした大勢の避難民が誘拐され、拷問を 受け、あるいは暗殺・殺害され続けたのです。タイは軍部隊精鋭を国境に派遣、 一部難民キャンプ内に駐留するとともに警察官の数を増やしましたが、襲撃軍を 押しとどめるには至っていません。侵入者は重武装で、隣国タイの警察官にも容 赦ない攻撃を加えるのです。北部のキャンプに暮らす人々は、いつ襲撃が止むの か、不安な夜を過ごしています。
 近年まで、ビルマ政府とカレン民族同盟間の和平交渉は何度か行われて きました。しかし、ビルマ政府が求めるのは一貫して無条件全面降伏であるため に、現在まで交渉は結実していません。カレン民族の運命はビルマ政府とカレン 民族同盟を取り巻く政治的環境の変化にかかっているとも言えます。カレン民族 は不確かさと恐怖を背負ったまま生き続けているのです。
 -AUG/1996.
 シルヴィア&スティーブン・ドン編



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