
| 「義勇兵という生き方」は、多くの日本人にとって理解するに難し
いものなのだろう。これについて訪ねられることは多く、その都度、正確 に自分の考えに沿った回答が出来たこともなかったように思う。日本人の 世界観は偏っていて勉強不足でもあるのだ。それでも「カレン族の戦い」
をWEB上で紹介するにあたっては「日本人義勇兵士」という立場、在り 様についての説明も必要だろうと思わせられた。 僕はここで自分の生き方が正しいもので、別の人々の生き方が間違 っているなどというような自分勝手な正義を誰かに強要する気はまったく ない。明快な結論を提示出来るとも思わない。しかし、相応の覚悟を以て 選択した自身の在り方については、ある程度、その「意志」と「理解」に ついて説明出来るのではないか?と思ったりもする。 なお質疑回答を記事に追加してゆくことも考えているので、真摯な質問などはEメイルで お願いしたい。 |
| まず義勇兵と傭兵の違いについてよく聞かれます。個人的な主観において言うなら、
この両者をその行動、あるいは仕事や果たす役目の中身から明確に線引きすることは不可能 だろうと思います。強いて言えば、傭兵=マーセナリーという英語は「金銭ずくの」という
意味から成り立っており、金次第で彼の戦闘能力を提供できる者たち、と言うことができる でしょうか?。 自国の軍隊や警察、あるいは官庁で行政の一部に携わることをサービス=奉仕と呼ぶ 一方で、彼らも、やはり報酬を受けることには違いなく、また、その報酬が場所によっては 金銭に限定されない現実も考えれば、さらに傭兵という「部分」をはじき出すことは難しく なります。ただ僕らのような「義勇兵士」は自国軍への志願兵と同様、=ボランティアと呼 び分けられています。さらに細かく言えば、参加した軍隊が自国でないとき、アタマに、外 人=フォーリン、と限定する言葉が付け足されたりもします。 PAGE-TOP |
| 外国に出てみればよくわかると思うのですが、兵士という職業は、決して異端な存在
でも、必ず悪党の代名詞というわけでもありません。彼らと軍隊以外の場所で友好関係を築 く人もいるはずです。そもそも軍隊とは、人を殺したい者たちや制限なく破壊したいという
欲求を持った人たちの集団ではないのです。 社会の様々な所から雑多に集まった「軍隊」には、もちろん様々な人間がいて、それ は、そのまま彼らが所属していた社会、当たり前の一般人がいる集団を反映しているもので す。その現実の在り様は、彼らを含む社会集団の個々の取り決めにも左右されるのですが、 彼らは統制・規律・法の下で、「百年、兵が養われることが、1日、社会の平和・安定を護 らんがため、暮らしを守らんがため」であると学びます。これは、現実に戦争を戦っている 社会の軍隊であろうと、幸運にして武器をとって戦う必要のない社会であろうと、変わりは ないことなのです。 PAGE-TOP |
| では何故、現実に戦争は起こってしまうのでしょうか。もしも少人数の異端者が殺戮
のみを目的として武装したと考えてみましょう。これは、ただの犯罪であって、社会は法の 下に、もちろんより強力な暴力の行使が必要だったとしても、それを犯罪として裁くことが
出来ます。その異端者集団の行為は、戦争とは別もので彼らは軍隊とは認められません。 けれど、人はやりきれない思いを一方に残しつつも、「戦争」を別の場所で「仕方の ないもの」と捉えのこしています。それは「戦争」が、単純な暴力覇権達成のためだけの行 為ではなく、社会の「営利追求」のために行使される最終手段でもあるという現実を知って いるからなのです。ここでの社会とは「国家」に限らず、「宗教」や「民族」であったりも しますが、その利益追求こそが権力と密接に結びついて「戦争」は起こってしまうのです。 もちろん私たちの所属する「日本」という社会も、人類がより発展を望んで戦う「戦争」に 無縁にあるはずがないのです。 PAGE-TOP |
| さて、しかし日本という国は仮にも世界に冠たる法治国家です。その平和憲法は戦争
の永久放棄をうたっています。なぜ日本人がワザワザ外国の戦場に立つのか?という疑問は 消えないでしょう。正直に言えば、それは僕にも判りません。僕が義勇兵士として戦うよう
になった理由を一言で言うなら「成り行き」にすぎないのです。それは「縁」と言い換えら れると思います。ただ僕は日本の外へでて、自身をも含めた様々な人や、その集まりである
社会、ヒトの在り様といったものをじかに考えてみることを覚えたのです。そしてカレン民 族が戦う訳を知りました。友人として、金は無いが、知恵やチカラは貸してもいいぞ、と素
直に感じられたのです。 だから現代の日本という国の一部分をもって「平和主義」に特別なこだわりは持って いないのです。もちろんこれは、日本を否定したり捨てているわけではありません。やっぱ り、日本の法で許される限りは日本に帰ってくるわけだし、愛着もあります。ただ、それは 経済大国の信用度からでも、戦争放棄の憲法からでもなく、自分の生まれた祖国、家族のあ るところ、あるいは言語や文化や歴史的なところに由来するものだと思うのです。 PAGE-TOP |
| そう僕は日本を捨てているわけではないし、当然、日本のために戦える理由があったな
らそうするでしょう。「兵士」あるいは「戦士」としてありたいのは、それが自身にもっと も能力を発揮しやすい「職業」、あるいは生きる場所だからです。 国家の法秩序・ルールは何処の国にもあります。もちろんビルマにも。しかし、軍隊 を廃して成り立っている国家はなく、「兵士」「軍隊」は確かに社会の一部なのです。また 今の日本に、外国軍に参加したから日本を捨てなければならない法的根拠もありません。 道義的にはどうでしょうか?。僕は弱者に暴力を行使する事に反対な、大部分の人々 に賛成です。非暴力を言う人を完全否定したりはしません。ですが、もし仮に同じ問題の根 を共有しているのだとしたら、少なくとも一緒に進まなければならないはずです。武器を取 らない人は別の手段を提示して見せる必要があるでしょう。 「一歩ずつ、矛盾を消化しながら平和的前進を模索する」なんて言い訳が聞かれそう ですが、曖昧さの中、その問題から恩恵を受ける場所にあって、日々変わりなく暮らす人々 が、ただ僕らを否定したり、責めることには我慢しません。別の解決策を提示出来るわけで もなく、覚悟の選択をする勇気もない彼らにそんな資格はないはずです。戦争を戦っている 国でも「殺すな・盗るな・欺くな」という道徳観念は同じです。それでも避けられなかった 戦争があり、今なお誰にもより良い解決策を示すことが出来ない現実の社会にあって、小学 生だって知っている道徳論で僕らを翻意させるのは無理です。 PAGE-TOP |
| また「義」に感じるところがあったことを認めるとしても、「ビルマの戦場で銃をと
り、人を撃つということに人間としての抵抗がないか?」、これもよく聞かれる質問です。 残念ながら大抵の人々の期待を裏切って、僕は「迷いもてらいも感じることなく撃ち殺しま
す」と応えます。もちろん撃ち殺される側の可能性も考えた上で殺される前に殺します。こ れは戦場という場所に兵士としてたつとき、相手方の「兵士」たちは「ヒト」ではなく、殺
らねばならない「テキ」にすぎないからです。彼ら敵兵と僕らは、ある意味では公平な立場 にあり、もはや互いを殺すことにおいてしか自身の生を保証し得ない存在なのです。 間違えないで頂きたいのは、僕らは純粋なんかではありません。何かを狂信している のではなく、いろいろな疑問や殺し合いの現場における現実を、その腹にのみ込んでなお、 「戦士」たろうという覚悟をもって「戦場」に立つのです。相手の兵士たちがどうかは判り ませんが、少なくとも戦場にやってくるということはそういうことです。 ここで戦いを生きた時間の中では、多くの友達も失いました。たくさんの生と死を見 つめて、生きることへの考え方も変わってきただろうとは感じます。歴戦の英雄も交通事故 で死ぬことがあります。僕らは死に方や死に場所を思い通りに選ぶことは出来ないのです。 僕らがこの地へやってきた動機・キッカケは紛れもない冒険心であったとは思います。しか し、ここで戦い続けること、生きる場所と時間を選択したことは、何が自身に合っていたの か、とにかく縁があったのです。「戦場のスリル」に酔っているなどということも決してあ りません。戦場にそんな余裕はなく、何度目の戦場もやはり、みなと同じように怖いもので す。あるいは、後方にたどり着いて、戦場という危険な時間をともに共有して生き残った仲 間同士での連帯感や充足感を分け合う時を心地良いものと感じることはあっても、それは必 ず変わるメンバーの中で何時自分が欠ける側に廻るかしれないもので、そのホンの一瞬の安 心感にすぎないものです。 PAGE-TOP |
| ただ、縁あって、この土地で戦い生きることが出来、また自由を求めたカレン民族の
戦いの僅かな一部分を戦士として担うことの出来た自分の人生に後悔は全くありません。ま た、そうあったことが理由で刑を受けたり、死ぬことがあったなら、それはまさに僕の望む
ところです。この戦いで死んだ仲間たちへの負い目を精算できる機会にもなるだろうから。 PAGE-TOP |