FOREIGN
FREEDOM FIGHTERS
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MANY OF FOREIGN FREEDOM FIGHTER WAS IN KAWTHOOLEI, LIVES AND FIGHT TOGETHER WITH KAREN PEOPLES. ESPECIALY, SOME OF THEM WARE DARE TO FIGHT, AT `KILLED IN ACTION`. −WE BELIEVE IT SURE,THERE IS APRECIOUS, AND MORE VALUABLE MATTER THAN A LIFE.BECAUSE OF THE HONOR. |
フィリップ/PHILIPPE-フランス-FRA(-OCT,1986)メラ高地で戦死 |
オリビエ /OLIVIER -フランス-FRA(-MAY,1989)コウムラ基地で戦死 |
ウィリアム/WILLIAM -フランス-FRA(-NOV,1990)メラ高地で戦死 |
イワイ /IWAI -日 本-JPN(-JAN.1991)マラリアにより病死 |
エリック /ERIC -フランス-FRA(-JAN.1992)マラリアにより病死 |
ジーン /JEAN -フランス-FRA(-MAR,1992)ティパウイ高地で戦死 |
エティム /EHTEEMOO-日 本-JPN(-FEB,1995)コウムラ基地で戦死 |
*ジャーナリストを除く義勇兵士のみ記載 |
「戦場にいて、何を考えてますか?」。不意にエティムが問いかけてきた。
「せやなぁ、やっぱり食い物のことかな」
「そうでしょ、やっぱ食い物のことですよね。」
東北出身と聞いていたが、生まれて長く関東にいたので、エティムにはナマリはまったくなかった。 外から差し込む陽の光が壕内を這い回る砂塵を浮かび上がらせる。そんな中で、彼は漫画本「美味しんぼ」
を読んでいた。呑気に聞こえるだろうが、昨日から激しさを増す敵の砲撃の中、食事から用足しまで 塹壕の中で片付ける生活が続いていた。ここで大事なのは、必要な時に必要な反応が出来ることで、始終、
緊張しきっていてはすぐに神経がマイッてしまうのだ。
「まあ、美味しんぼ…なんか読んでると、いろいろ思うもんなんやけど、国境の町にたどり着いて、 とりあえず冷たい飲み物を飲んでしまうと、もうあとはどうでもエエようになるんやな、これが、」。
一人分の生味噌パックで作ったあさり味噌汁をすすりながら答えた。エティムは永谷園のお茶漬のもとを 振りかけたメシを食っている。
「そうスね。でも、マンガとは関係ないですけど、自分は今ハンバーガーが食いたいンすよ。 マクドナルドのビッグ・マック。」
「また、なんでやねん。そんなもん、この戦闘しのいだらバンコク日帰りバス代込みでおごったるわ。」
「ホントですか。約束ですよ。」。…これが彼との最 後に交わした果たせぬ約束になってしまった。別命を受け、7日午後には後方に下がり、
夕刻までにコウムラを離れなければならなかったのだ。
翌朝、河岸に設けられた味方の連絡用掩体へ出掛けてみると外から見る砲撃はさらに凄まじさを 増していた。時折タイ側にも迫撃砲弾が炸裂するが、どうやら敵はタイ側への渡河作戦を実行出来なかったらしい。
報道陣はBPP(国境警察)ポストで足止めを食っているが、多くのタイ人がタイ軍の掩体に避難しながらも 灰色の煙に霞むコウムラの戦闘を見物していた。単車で近くまでやってきた男女や、
ひどいのになると、ゴザをひろげて酒を飲み、ラジオカセットに交錯する戦闘の音を録音して悦にいってる男までいる。
なお政府軍は中国から買い入れた火砲・弾薬を補給し、狂気の猛攻を加え続けカレン軍隊の敷設した地雷原と 鉄条網をことごとく破壊していった。それでも政府軍の送り込んだ決死隊は目的を達せられず、
次々に銃撃に倒れていった。なかには最終防衛ラインの突破を果たしても味方政府軍側の砲撃で負傷し、 カレン軍の捕虜となった者もいた。
結局、カレン軍戦死者7名に対し、政府軍は106名の戦死者を数えて敗走した。
エティムもこの犠牲者のなかの一人だった。再びコウムラに入って、タモ少佐、ジョオンやプエドウ、 仲間たちにの報告を受ける。 106ミリ無反動ロケット弾が、彼が銃をかまえていた銃眼を直撃したのだ。
彼は最後まで銃を握り勇敢に戦って即死したようだった。
前日の朝、エティムは頬と胸に手榴弾の破片を受けていた。政府軍の使う小さな対人手榴弾の小さな鉄片がかすめたカスリ傷だ。 しかし彼は決して退こうとはしなかった。いや、その小さな傷を見せ誇らしげにも笑って見せた。
その日も迫撃砲の破片を右足首に受けて負傷し、後方からの撤退指示をうけてなお、最後まで第一線を離れなかったとも聞いた。
今にして思えば、彼を後方へ引き戻すことは誰にも出来なかったと思える。先立つ19日のコウムラ砲撃で、 700人で護る陣地の中、重迫砲に被弾して戦死したアラカン人兵士が両名とも、彼の特に親しい仲間だったのだ。
口数が少なく真面目で朴訥な男は、普段と変わりない表情の下に「怒りのエネルギー」を隠していたのだ。 とびきり彼流に頑固で、また暖かなハートの持ち主でもあった。
91年10月には彼とともにカレン軍に従軍、戦闘にも参加したアナサワ君は、懐かしそうに振り返る。
「空挺教育でね、体力検定で満点をとったんです。誰もがとれるもんではないですよ。 彼は懸垂一回分が足りなくて満点を逃した。ものすごく悔しがっていましたヨ。僕らは親友でライバル同士だったんです。」
エティムは元・自衛隊員で習志野の第一空挺団、対戦車班に所属していたのだ。今は会社に勤めるアナサワ君は、 生前のエティムと何通もの手紙を交換している。
「手紙の中で、彼が変わっていくのが理解ります。最初は戦闘体験とか、自分を試したいとかって言っているのが、 戦いのあとに仲間たちと共有する時間や生きがいを求めたような話になっていきます。
あるいはデタラメな傭兵を気取るスギヤマという人や、ボスニアへ転戦する外人兵仲間の話もあって、なお、 自分はカレンの人たちと一緒に、自分の戦争を戦い、そして生きる。結果としての死が「戦死」であるなら喜んで受け容れる…と
も書いてました。」
日本人の間では、兵隊とか軍人というと暴力の代名詞みたいで良いイメージがないが、 時と場所によっては必要とされ愛される部分も少なくない。時に、難民キャンプでの生活すらカレン人たちと共有し、
学校や道路から橋の修理などにも、積極的に参加して非戦闘時を過ごしていた彼は、外人兵の中でも誰よりカレン民族を愛していた… とも言えるようだ。
特に「兵士」たる者、弱きをたすけ、強きをくじき、平和の道たづること、己が業として尊び…という武士道は、その王道である。 まさに武人たる者にとって、愛すべき人たちからの信頼こそは自分自身の最も誇りとする精神の柱となる…
という気持ちは良く理解出来た。
「二人の兄貴はマットウに就職して両親を助けて生活してるんです。自分は親に会わす顔がなくてね…。 でも兵隊やってる自分が一番好きなんですよ。6月が来たら一回、実家に帰ろうと思ってます。」彼が言い遺した言葉が思いだされる。
享年24才、世を去るには若すぎる年齢であるが、彼の記憶は生年なども含めてシッカリと俺の中に刻み込まれている。
91年4月末以来、四年間をカレン民族軍とともに過ごした彼が、一人で乗り込んできた義勇兵士だったことは、 彼を前線へ案内した俺たちが証明出来る。彼はもう5月には、ダグウィンと呼ばれる陣地付近の高地の第一線に立っていたのだ。
政治的理想・思想や宗教にも無縁で、いかなる結社・団体のために働いたなどということも断じてない。 彼は自身の選択でやってきた。「ひとりぼっち」だったからこそ強く生きたのだ。もちろん同様に生きる仲間がいたにせよ…だ。
また、エティムは、最後まで着ていたカレン軍戦闘服にも、自衛隊時代の空挺章を縫い着けていた。彼は自衛隊員時代をも含めて、 自身の兵士としての経験を誇りとして、自分の選択した道の中で、何処でどうやって生きるか…を考え続けていたのだと思う。
彼が逝ってから知ったことだが、彼には94年の始め頃から特別なカレン人女性がいたことが手紙にしるされている。また、 彼の遺したノートにはビッシリとカレン単語と日本訳が書き込まれており、彼が持ち歩いた写真帳にも、
カレン語の説明が裏書きされた兄弟と両親の写真が挟み込まれていた。なにより、 彼が左の腕にカレン語の名前を入れ墨していたことには驚かされた。
彼は、ビザの失効などものともせず、常に前線を求めた。また一方、カレン民族の理解のために、 長期に渡って出来る限り多くの時間をカレンの人々とともに過ごそうとした。彼は「戦争マニア」でも「殺人鬼」でもない。
友誼にあつく、仲間たちと自らの人生と家族を愛する、ありふれた「日本人」であった。また類い希なる「勇気」をもって生き、戦った…、 素晴らしい男であったのだ。
その死を悼んでくれるすべての人々に、ニッポン人自由戦士エティムのことを誇って貰いたい。
彼がコウムラに散ったあと、なお、政府軍中央は「いかなる犠牲を払おうともコウムラを占領奪取せよ」という強い命令を出し、 さらに攻撃部隊を再編させた。新たに到着した数千の政府軍部隊が、迫撃砲主体のコウムラ攻撃を2月半ばになって再開する。
そして、第一線を護る前線カレン兵たちが目と喉に強い痛みを訴え、耳や鼻から出血して倒れはじめたのが21日の夜半2時をまわった頃だった。 政府軍が使用したのは120ミリから130ミリ口径の化学ガス弾頭砲弾であると考えられている。
五人の兵士が吐血して意識不明の重体…という報告をうけた司令官のトラ大佐はコウムラを放棄し、午前4時までにコウムラを放棄・ 撤退することを決めた。政府軍の主力がコウムラに入城したのは翌日の昼前頃である。こうしてあっけなく、最後の戦闘陣地は落城したのだった。
ここであらためて、7日・8日の戦闘に散ったベイワ大尉以下7名の戦士、21日未明には敵正面第一線を護って戦い、 撤退を拒否してピストルによる自決を遂げた将校を含む犠牲者たちに最大級の敬意をもって、その冥福を祈りたい。