< 「ビルマ」か 「ミャンマー」か >

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 ミャンマー? ビルマ?
 国名について「ミャンマー」と「ビルマ」のどちらで呼べばいいのかとよく聞かれます。これは今も議論が尽きず、決着がついていない問題です。
 ただ、日本から「ビルマ」と呼ばれていた時代から、「ミャンマー」という言葉はありました。もともと「ミャンマー」は国を指し、「ビルマ」は「バマー」というもっとも人口の多い民族の呼び名なのです。ただし、この説明は旧軍政によるものなので、私は抵抗を感じますが、一理あるとも思います。
 つまり、国名としての「ビルマ」は日本人にとっては身近であっても、地元の人にとっては身近ではないのです。「ビルマ」は「バマー」だけを象徴するマジョリティー主義とも言えるでしょう。したがって、個人的には「ミャンマー」という呼び方がしっくりきます。

ナンミャケーカイン「一九八八年と二〇二一年のミャンマー民主化運動」p.10
玄武岩・藤野陽平・下ク沙季 [編著]『ミャンマーの民主化を求めて 立ち上がる在日ミャンマー人と日本の市民社会』(寿郎社、2023年3月)


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 凡例
(一)一九八九年に当時の軍事政権が英語の国名と都市名を変更している。Burma(ビルマ)という国名が Myanmar (ミャンマー)になり、Rangoon (ラングーン)という都市名が Yangon (ヤンゴン)になった。その他にも、Irawaddy River (イラワジ川)が Ayeyarwady River (エーヤワディ川)になるなど、よりビルマ語名の発音に忠実な英語表記が用いられている。本書では読みやすさを考慮して、変更前についても、現代の国名と地名を一貫して用いる。ただし、地名や(三)で言及する民族名を含む組織名については定着している名称を使用する。
(二)行政区画名の一部が二〇一一年に変更され、それまで管区と訳されていた Division (ビルマ語でタイン)が Region (ビルマごでタインデータージー)に変更された。 Region は地域や地方域と訳されることもあるが、耳慣れない表現であるため、本書では管区という行政地域名を引き続き使用する。
(三)民族名については、ビルマ人、カイン人、シャン人といったかたちで「人」をつけて表現する。「ミャンマー人」と表記した場合は、ミャンマーの国籍を持つ者(おいび持つ資格があるとみなせる者)を意味する。
(四)
(五)

中西嘉弘『ミャンマー現代史』(岩波新書、2022年8月)


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 少数民族を含めたミャンマー国民らを指す場合は「ミャンマー人」とし、多数派民族については「ビルマ人」と表記する。基本的に「ミャンマー」と「ビルマ」は同じ意味だが、現在、英語の国名は「ミャンマー」が使用されているためだ。
多民族国家ミャンマーでは、さまざまな民族の言葉がある。公用語については、ビルマ人の言葉ではあるが「ミャンマー語」と表記することにした。
ビルマ人には基本的に姓名の区別がない。そのため基本的には「・」で区切らず、名前全体を表記している。だが、アウンサンスーチーの場合、「スーチー」の呼び方も一般化しており、本文中に多数回出てくるため「スーチー」もつかう。ただ、姓の存在は民族によって違ったり、取材上、姓名の区切りが不明確だったりしたケースもあたっため、表記にややばらつきがあるのはお許しいただきたい。

「序 共闘宣言 〜「敵とは国軍で、私たちはお互いではない」〜」pp.5-6
北川成史『ミャンマーの矛盾 ロヒンギャ問題とスーチーの苦悩』(明石書店、2022年7月)


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 ビルマ? それともミャンマー?

 「ミャンマー」(Myanma)という名称が碑文に初めて登場したのは、およそ一〇〇〇年前。それはイラワディ川(一九八九年、暫定軍事政権により[エーヤワディー川]と改称された)の渓谷(中央平原部)に住む人々と、その言語を指していたものと思われる。その後数世紀にわたり、王たちは自らをミャンマー王、その王国を「ミャンマー・ピー』(ミャンマー王国)あるいは「ミャンマー・ナインガン)(ミャンマーが征服した土地)と呼びならわした。この言葉は一七世紀までに、口語で「バマー」と発音されるようになる。「ミャンマー」も「バマー」も形容詞だ。
同じころ、最初のヨーロッパ人が現れ、この国を「バーマ」(日本語表記ではビルマ)に基づく名称で表すようになった。たとえばポルトガル語では「バーマニア」、フランス語では「バーマニー」という具合である。これらの名称は確実に「バマー」から派生したものと思われる。イギリス統治下では、この国の正式な英語名は「バーマ」とされた。一方、ビルマ語での呼称は「ミャンマー・ピー」のままに留まった。
これらのことは、一九八九年まではたいした問題ではなかった。だがこの年、暫定軍事政権が国名の国際表記をミャンマー(Myanmar)に改称する(最後の r は、イングランドの南東部に見られる慣習のように母音をのばすためのもので、発音されない)。その理由は、「ミャンマー」という名称こそ、同国に古来より居住するすべての人と包含するものであるため、というものだった。だがこれは真実ではない。この名称が自分たちをも指すと主張する少数民族は、たとえいたとしても、ごくわずかだ。国際表記改称の真の理由は、ネイティヴィズム(土着主義)に向かっていた当時の政府が、エスノナショナリズム(共通の言語・文化・生活様式を持つ民族集団の独立国家建設理念)を主張する人々の信任をたやすく得られる手段と考えたからだ。いわば、ドイツ人が国家の英語呼称を「ドイチュラント」(言行の英語名は「ジャーマニー」)、イタリア人が「イタリア」(同「イタリー」)に改称せよと世界に主張するようなものである。西側諸国の多くは、慣習から、あるいは軍事独裁政権への不快感を表すため、「バーマ」を使い続けた。
私自身は本書全体を通し、習慣から「バーマ」という名称を使用している(邦訳では「ビルマ」)。その理由は、一つには、ビルマ語の話者として、国名に形容詞を使うのは居心地が悪いため。二つには、英語においては「バーマ」のほうがずっと響きがいいため。そして最後に、国際表記の改称はネイティヴィズムに基づくものであるからだ。
私が「バーミーズ」[邦訳ではビルマ人または〈ビルマの〉]という言葉を使うときは、ビルマ語を話し、大部分が仏教徒であるビルマの多数派民族の人々、またはビルマ国家を指す。ビルマに住むすべての人々を指す満足できる言葉は、少なくとも今のところまだない。私はまた同じような理由で、地名についても旧称を使用している。たとえば、現在のラカイン州と呼ばれている地域については、アラカンと記す。
他のアイデンティティに関する呼称も、同様に、あるいはそれ以上に議論の余地がある。その最もものは、アラカンに暮らす小雨はイスラム教徒「ロヒンギャ」の人々だ。その理由については、本書全体を通して触れてゆく。
ビルマ人の名前についても説明が必要だろう。大部分のビルマ人は姓も持たず、下の名しかない。
子の名は伝統的に、僧侶や占星術師の助言を得て親が選ぶ。そして、生まれた日の曜日に呼応するビルマ語のアルファベットが付けられることが多い。・・・・・・。
一方、カチン族のような一部の少数民族には、姓あるいは氏族名があり、それが名の前に置かれる。マラン・ブランセンという名の「マラン」は氏族名だ。
ビルマでは、個人名、地名、民族名、果ては国名さえ変わってきたし、今も変わりつつある。ビルマは、アイデンティティが不安定な国だ。アイデンティティの問題と、この国の風変わりな政治、そしてさらに奇妙な経済とその関係については、こののち本書のなかでくわしく見てゆくことになる。

「ビルマの名称について」pp.7-9
タンミンウー(著)/中里京子(訳)『ビルマ 危機の本質』(河出書房新社、2021年10月)


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 「ビルマ」という呼称は、オランダ語からの借用語だといわれる。日本では明治初期から使用されてきた。「ビルマ」を意味するビルマ語には、「バマー」と「ミャンマー」がある。ともにビルマ族(バマー族、ミャンマー族)をさす同義語だ。それは12世紀の日分には「ムランマー」という民族名で、16世紀のポルトガル商人の手記では「ブラマー」という民族名で記されている。「ムランマー Mranmar」は、文語の「ミャンマー Myanmar」に転化した。「ムランマー」はまた、口語の「ブラマー Bramar」へ、そして「バマー Bamar」にも転化したという。
1886年に英国がインドの一州としてこの地を併合したとき、英語表記「バマー Burma」が州名として使用された。ビルマ語表記では「バマー Bamar」と「ミャンマー Myanmar」が併用された。1948年の独立時も、国名の英語表記には「バーマ」が、ビルマ語表記は「バマー」と「ミャンマー」が継続して併用された。
つまるところ「ビルマ」とミャンマー」は同義語で、当時の多数派民族名を表すにすぎない。我々の「ニッポン(日出ずる処)」や「ジャパン(黄金の島ジバング)」と比べれば、「バマー」と「ミャンマー」の間のほうよほど近しいはずだった。
1988年に「ビルマ式社会主義」の仮面をかなぐり捨て、暴力機構の素顔をさらして権力を握った国軍は、1989年6月18日に国内外における国名表記を「ミャンマー」に統一すると宣言した。同時に彼らは、地名の一部で併用していた英語表記を排して、ビルマ語表記に一本化した。たとえばラングーンはヤンゴンに、イラワジはエーヤーワディーに統一された。英語表記を配したことからは、「社会主義」を放棄した国軍は、英国植民地主義の残滓を排してビルマ・ナショナリズムを新たな支配の正当性として前面に押し出したことがうかがえる。
では、国名表記の統一もビルマ・ナショナリズムの発現だったのだろうか。軍事政権は国名表記統一にあたり、「バマー」は多数派民族ビルマ族をさし、「ミャンマー」はこの国の全住民をさすという理由を付与した。この新たな理由付けは、少なくともわたしに初耳だった。軍事政権・国家法秩序回復評議会は、1990年の総選挙で正式の国民代表を選ぶまでの暫定政権であることをもって自任していたはずだ。国名表記などという事項は、暫定政権の所掌を超えている。まさしく、「我々が法である」と宣言して登場した政権ならではの理由付けにほかならない。「我々が言うのだから正しい」というわけらしい。
これを文学の呼称に援用すれば、どうなるだろうか。ビルマ族の母語であるビルマ語で記述された文学が「ビルマ文学」だることに変わりはない。そして「ミャンマー文学」とは、この国に住む全民族の言語で記述された全文学を包摂する実に壮大で豊穣な文学世界を意味することになるはずだ。公用語はビルマ語だが、シャン族、カチン族、カレン族、モン族など、国内に居住する多くの民族が、独自の言語・文字を持っている。
しかし、その後の軍事政権の扱いを見ていく限り、「ミャンマー」語・「ミャンマー」文学は、「ビルマ」語・「ビルマ」文学と同義的にしか使用されていないように見える。それは、彼らが「ミャンマー」を国名とした際の理由付けと矛盾するのではないだろうか。それは彼ら自身が、「ビルマ(バマー)」と「ミャンマー」は同義語だと認めて締まっていることになりはしまいか。こうした矛盾について、同様の指摘をするビルマ人識者も存在する。だが、軍事政権から必要にして十分な説明がなされた形跡はいまだ見出せない。これは、軍事政権の言行が発現する厖大な矛盾の中のほんの一例に過ぎない。
本書では、このような根拠に乏しい呼称の使用を避け、従来どおりビルマ語による記述文学をビルマ文学を称する。そして国名や国民の呼称は、1989年6月の「変更」以前はビルマ、ビルマ人、それ以降はミャンマー、ミャンマー国民と称するよう努めてみることにする。読み進めていただく際にいささかご面倒をおかけするが、ご容赦願いたい。

「ミャンマー」文学!? pp.16-18
南田みどり『ビルマ文学の風景―軍事政権下をゆく』(本の泉社、2021年3月)


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本書での国名表記
 ここで、本書での「ミャンマー」あるいは「ビルマ」という用語の使用方法について触れておきたい。
 1989年9月、民主化運動が盛り上がりを見せる中、国軍は、クーデターにより国家の全権を掌握し、国家法秩序回復評議会(State Law and Order Restration Council:SLORC) を設立した。クーデターによって登場した軍事政権は、特に欧米諸国からの批判に曝された。そうした批判への反発もあって、SLORCはイギリス植民地時代に付けられた地名等をビルマ語名に変更していった。その中で、その後特に問題となったのが、1989年6月18日付の法律での国名の英語表記の変更であった。この法律自体は国号の変更といった性格のものではなく、英語表記を Union of Burma から Union of Myamar に代えただけで、対外的に用いられる英語呼称の変更であった。しかし、SLORCが変更の説明および同日発布された国歌に関する「指令第2/89号」なので、ビルマ語の「バマー(Bamar)」はビルマ人(族)のみを指す言葉で、国家の名称としては土着民族すべてを指す「ミャンマー(Myanmar)」を使用すべきであるという解釈を示したことで、問題がきわめて政治化していった。
 ビルマ語における「ミャンマー」と「バマー」の関係についての一般的な理解では、前者が主として文語表現であり、後者が口語表現であるという違いで、これまでこの2つの語を意味・内容で区別してこなかった。いずれも、狭義のビルマ人(族)を指した。それ故、SLORC側の主張に明確な論拠が存在しているとは言い難い。つまりこの時点で、SLORCは、「ミャンマー」というビルマ語に新たな意味を付与しようとしたと言える。
 この新たな意味の付与に対し、民主化勢力、特に国境地帯や国外で活動する勢力は、国民の合意のない国名変更は認められず、引き続き英語では Burma を、日本語では「ビルマ」を使用すべきであると主張した。その後、日本の「ビルマ史研究者」からも、SLORCの対外向け呼称の篇』に伴って、日本の外務省やマス・コミの多くが機械的に「ビルマ」から「ミャンマー」に呼称を変更したことに対する疑問が提示された。そして「『ビルマ』(バマー、BURMA)という国名を使い続けるほうが、ビルマの近・現代史の流れから見て妥当性がある」との見解が出された。
 しかしながら、この見解が近・現代史の研究から導きだされたものであるとすれば、やはり一面的な解釈にすぎない。この見解では、「1930年代のビルマの独立闘争において重要な役割を果たしてきたタキン党が、『バマー』をどういう意味を込めて使ってきたかを考えて」みる必要があるとし、「タキン党の正史」とされる文献から「敢えて『バマー』を用いることにより、英国植民地下のビルマに住む被支配民族すべてを指そうとした」というタキン党の論理を取り上げている。そしてこの時「『バマー』はタキン党によって新しい意味を付与されたとかなえてよい」とした上で、これを「ビルマ」を使用すべき論拠としている。しかし、こうした論理を突き詰めていけば、例えば、1974年憲法制定に際して、この憲法の注釈書等で、当時のネーウィンが「ミャンマー(myanma)」というビルマ語に少数民族を含む国民という意味合いを込めようとした事実は、どのように解釈されるべきなのか疑問に残る。タキン党が「ビルマ政治史に無視できない影響を与え」たならば、ネーウィン政権もミャンマー現代史において無視できない存在である。同様のことは今回のSLORC政権の「ミャンマー」という言葉への新たな意味の付与についても当てはまる。「ビルマ」を使用すべきであるという見解をとるならば、なぜ、タキン党による意味付けは「正しく」、ネーウィン政権やSLORCによる意味付けは誤りであるということになるのか、別の論拠が示されなければならない。
 しかし、ここで確認しておきたい事実は、「バマー」あるいは「ミャンマー」という言葉に、こした論拠のない意味付けを行ってきたのは、タキン党であろうが、ネーウィン政権であろうが、ビルマ人の側であった点である。
 民主化勢力が「ビルマ」を使用すべきであるとする主張には、それなりの政治的意味があり、そうした政治的主張を行う立場を否定するものではない。しかしながら、そのことと日本語表記をどのようにすべきかといった問題を直接的に結びつけるべきではない。
 そこで、本書では、国名・地名・人名等の表記に関しては、できるだけ現地語(原音)に近い表記を採用していこうとする現地主義の立場にたって、政治的意味合いを込めずに機械的に、公用語としてのビルマ語音にできる限り忠実に日本語表記することにした。但し、民族としてのビルマ人(族)、ビルマ語、「ビルマ社会主義」などの歴史的用語として定着したものには、「ビルマ」を用いた。また、資料中においては、ビルマ語で「ミャンマー(myanma)」、英語で Myanmar とあるものは「ミャンマー」を、ビルマ語で「(bama)」、英語で Burma とある場合には、一応「ビルマ」を用いた。
 従来、現地主義の立場に立っても、一般的に定着してきた用法(例えば「ビルマ」という国名)に関しては、何らかの理由で問題とならないかぎり、慣用表記として引き続き用いられてきたが、その意味では、SLORCの国名の英語表記変更、それに対応した日本の公的機関、マス・コミなどの「ミャンマー」の使用が、従来の慣用表記を見なおすきっかけとなったと考え、解説・注記等においては、国名として「ミャンマー」を使用する。
 しかしながら、現存の国境線に従った国家あるいはその国家が使用する公用語を基準に据えた現地主義という立場を採用する最大の問題点は、対象国が多民族国家で、独立・民族自治を主張する民族集団が存在し、かりにそうした集団が現存の国境、公用語を認めないといった立場に立つ場合、一方(国家)の主張を受け入れたと受け取られる危険性があることである。多民族国家であり、かつ国境地帯を中心に少数民族反政府武装勢力が存在しているミャンマーにおいては、国名ひとつの表記においても慎重にならざるを得ない。よって、本書において「ミャンマー」という言葉を使用するとしても、それは「ミャンマー」という国名表記が絶対的な正当性を持つとか、「ミャンマー」という言葉にこそが少数民族を含む国民を指していることを主張しているわけではない。ここでは、あくまでも機械的に、上で述べてきた現地主義を採用したことを意味するのみである。

「本書での国名表記」pp.6-10、伊野憲治『ミャンマー民主化運動―学生たちの苦悩、アウンサンスーチーの理想、民のこころ』(メコン、2018年


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「ミャンマー」への国名変更と日本

Q.そうなんだ、「ミャンマー」という言い方も政治的なんだ。
A.「ミャンマー」といういい方は、前の軍政が一九八九年、英語の読み方をビルマからミャンマーに変えただけなんです。

Q.当時のビルマ政府は、どうして英語の国名をミャンマーに変更したのですか。
A.ビルマでは一九八八年に民主化デモが起こり、ネウィン将軍が退陣し、翌九〇年に総選挙が実施されました。スーチー氏が書記長を務めるNLDが総選挙で大勝したにもかかわらず軍事政権は政権を委譲しませんでした。そこで軍部はクーデターを起こし、新しい軍事政権がスタートすることになったのです。そこで、クーデーターによって形の上で新しい政治体制のスタートを切った軍事政権は、これまでとは違った説明をしはじめたのです。
 つまり、ビルマという国名はビルマ民族だけを指すのであって、ミャンマーという呼称はビルマ民族に加えてカチン民族・カレン民族・シャン民族など他の少数民族を含めた名前だと説明することによって国際的なイメージの転換を図ったのです。実はそれまでの歴史的な解釈では、英国からの植民地闘争時、ミャンマーというのはミャンマー民族だけを指し、ビルマ民族は他の少数民族を含めた呼称だとしていたからです。

Q.でも、その国が民主国であれ軍事独裁であれ、その国を事実上統治している政権には、国名変更をする権限があるのではないでしょうか。
A.そういう説明は成り立つかも知れません。だから、選挙という民意を経ていないクーデーターによる軍事政権が国名を変更したということで、民主化を求めて言い他多くのビルマ国民は反発していました。
さて、このあたりに、ミャンマーと日本の関係の複雑さの一端が現れて言います。

Q.それはどういうことですか。
A.国名変更は、あくまでも英語の国名が変わったということです。日本では歴史的に、ビルマという呼び方はオランダ語から伝わってきたのです。それが英語の呼称が変わったからといって、日本語に定着していたビルマを英語読みにする必要があるのですか。

Q.英語での呼称と日本語での呼称の関係がよく分かりません。
A.こういうことです。例えばヨーロッパのギリシャは英語ではなんといいますか?

Q.グリース(Greece)じゃないんですか。
A.普通はそう答えますよね。英語の試験でもそう書けば正解です。ですが、例えば日本の外務省のホームページを見ると、ギリシャの英語の正式名称はグリース(Greece)とはなっていません。“Hellenic Republic”となっています。日本語でいうギリシャという呼び方はポルガル語が起源ではないかと言われています。ビルマからミャンマーへと呼び方をしたのは、日本の事情が関わっています。
 一九八九年といえば、日本では昭和から平成になった時期と重なります。当時の日本政府は、一九八八年にクーデターで成立した軍事政権を承認していませんでした。しかし、昭和天皇の大喪の礼に未承認国の参列者を迎えるわけにはいかず、翌一九九〇年には、平成天皇の即位の礼が予定されていました。日本政府はこのとき、たとえ軍事政権ということで世界から非難されていた国だったしても、戦前から日本と深い繋がりのあるミャンマー政府の意向を無視することは出来ませんでした。
 その政府の決定の裏側でミャンマー政府の承認と国名変更に積極的に動いたのは、同国に権益を持つ日本企業でした。しかしこの時、在ミャンマーの日本大使館は、自国民の支持を得ていないクーデター政権の実情を知っており、軍事政権の承認に反対していました。ミャンマーという軍事政権と国名変更の承認は、日本側の政治的な判断によるものなのです(三上義一『アウン・サン・スー・チー 囚われの孔雀』講談社、一九九一年。永井浩『アジアはどう報道されてきたか』筑摩書房、一九九八年)。
 それはさておき、ミャンマー政府は、軍政や民政移管後の政権も、過去にさかのぼって歴史的な名前まで改変している例もあるのです。

宇田有三 『ロヒンギャ 差別の深層』(高文研、2020年8月)


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<付記>国名について──「ビルマ」か「ミャンマー」か?
 
 この本ではビルマの植民地時代を主な背景にしていますので、国名については当時一般的に使われていた「ビルマ」を用います。でも、お気づきのように、皆さんが学校で習ったり新聞やテレビで見たりする国名は圧倒的に「ミャンマー」た多いと思います。どちらも同じ国のことを指すのでが、どうして異なる二つの呼び方があるのでしょうか。ビルマをめぐる国名に関心のある皆さんのために、「ビルマ」と「ミャンマー」をめぐる問題について簡単な説明をしておきましょう。
 結論から言うと、二つの名前のうち、どちらか片方が正しく、もう片方は間違っているということではありません。どちらも「正しい」といえます。この国のビルマ語による名称は1948年の独立時からずっと「ミャンマー」でしたが、国際社会では英語名称の「Burma(バーマ)」で知られ、日本でも「ビルマ」と呼ばれてきました。しかし、1988年9月に民主化運動を封じ込めて登場した軍事政権は、翌1989年6月に突然、英語の国名を「バーマ」から「Myanmar(ミャンマー)」に変更すると宣言しました。すなわち、ビルマ語の国名も英語の国名も「ミャンマー」に統一すると言いだしたのです。
 ビルマではパガン朝時代(11〜13世紀)から、書き言葉(文語)では「ミャンマー」が使われ、しゃべり言葉(口語)では「バマー」が使用されてきました。今でもビルマ人同士の会話では「バマー」がよく使われます。英語の「バーマ」はこの口語の「バマー」を起源にしています。「バマー」や「バーマ」はオランダ語では「Birma(ビルマ)」と表記されたため、日本では明治初期にこのオランダ語の呼び方が導入され、漢字表記の「緬甸」とともに日本語のなかに定着しました。
 ビルマ語の「ミャンマー」(文語)と「バマー」(口語)に意味上の違いはありません。どちらも歴史的には狭義の「ビルマ民族」(ミャンマー民族)や彼らが住む地域を意味しました。現在でいうカレン民族やシャン民族などの「少数民族」を含む概念ではないことに注意が必要です。しかし、軍事政権が英語国名を「ミャンマー」に変更したとき、「ビルマ」と「ミャンマー」に意味上の違いが歴史的に存在したかのような説明をしました。軍政によると「バマー」は狭義の「ビルマ民族」のことを指し、「ミャンマー」は少数民族を含む「国民全体」を意味するというのです。よって英語国名を本来のビルマ語名称の「ミャンマー」に統一すべきだと言いました。
 しかし、この説明は新しくつくりあげた解釈にすぎず、歴史的根拠がありません。もし、どうしても「バマー」と「ミャンマー」との間に意味上の違いを見い出そうとするのなら、その解釈とは逆になるはずです。というのは、軍政の基盤であるビルマ国軍の誕生と密接な関係を有した1930年代の反英ナショナリスト団体タキン党が、口語の「バマー」(英語のバーマ)こそ「ビルマ国民」全体の呼称としてふさわしいと主張し、その使用に力を入れた過去の史実があるからです。日本軍がこの国を占領して中途半端な「独立」を与えたときも、国名はこのタキン党の解釈に従い、ビルマ語では「バマー」、日本語では「ビルマ(緬甸)」、英語では「バーマ」を使いました。軍政は独立闘争期の歴史を無視しているといえます。
 ただ、たとえ軍政の説明に歴史的根拠がなくても、一国の政府が英語名称の変更を公的に宣言した以上、国内のみならず国際社会もそれに従わざるを得ない面があります。国連ではすぐに英語呼称を「ミャンマー」に変更しました。日本のマスメディアも一部を除いて「ミャンマー」表記に変えました。文部科学省の検定を受ける学校の教科書も同じです。世界の多くの国々も、米国と英国などの例外を除き、21世紀に入る頃までには「ミャンマー」(ないしはそれに近い発音表記)を使うようになりました。
 一方、「バマー」「バーマ」「ビルマ」を使い続けた方がよいとする見解も根強くあります。それを一番強く主張しているのが反軍政側に立つ人々、すなわち民主化支持の人たちです。彼らは「クーデターで登場した軍事政権が国民の合意を得ずに英語呼称を一方的にミャンマーに変えた」ととらえ、その命令に従うことは非民主的なことと判断し、現在でも「バーマ(ビルマ)」を使っています。民主化運動指導者のアウンサンスーチーも英語で発音するときは「バーマ」を使い続けています。欧米系のメディアでも2011年3月の「民政」移管までは「バーマ」を使用する媒体が多数ありました。
 日本でも明治以降の国語表現のなかで定着した「ビルマ」という呼称を、わざわざ「ミャンマー」に変える必要はないという考えに基づき、「ビルマ」を使い続ける人がいます。たとえば現在の英国の公式名称は「大ブリテンおよび北アイルランド連合王国」ですが、誰もその略称である「連合王国」という国名を日本では使っていません(外務省だけが最近まで使用していましたが)。「英国」や「イギリス」という呼称は江戸時代から日本とのなかで使われており、19世紀後半に「国名」が「連合王国」に変わっても、日本語による呼称をそれに合わせて変えるということはしませんでした。英国政府からそのことに関して抗議を受けたという話も聞きません。相手側が呼称を変えたからといって、必ずしも自国の言葉における呼び方まで変えなければいけないというわけではないのです。
 以上のような問題点を考えると、「ビルマ」「ミャンマー」の呼称をめぐる判断は一筋縄ではいかないことがわかるでしょう。本書では冒頭に示した理由で「ビルマ」を用いますが、皆さんがこの国を語る時は、自分自身でよく考えたうえで、「ビルマ」か「ミャンマー」か、選ぶようにしてください。もちろん「ビルマ(ミャンマー)」「ミャンマー(ビルマ)」というふうに併記して用いる方法もあります。

根本敬『ビルマ独立への道──バモオ博士とアウンサン将軍』(彩流社、2012年4月)




本書内の「ビルマ」等の表記について

 ミャンマー現政権と日本政府、国連は、同国の国名を「ミャンマー」としていますが、長井健司自身は「ビルマ」と呼んでいました。
ちなみに、国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した現政権は一九八八年、軍事クーデターによって成立し、その後の実施された総選挙の結果を無視して国会の召集を拒み続けています。
 こうした経緯から、もともとの国名である「ビルマ」と表記するメディアと、日本政府や国連に倣って「ミャンマー」と表記するメディアがあります。本書での表記は、長井の呼び方に従い、国名を「ビルマ」とし、現政権とその軍隊、組織、団体などは「ミャンマー」をつけます(たとえば「ミャンマー政権」「ミャンマー軍」「ミャンマー大使館」など)。また、二〇〇六年までビルマの首都だった同国最大の都市「ラングーン」は、読者の混乱を避けるため、現政権による呼び名「ヤンゴン」を採用します。

明石昇二郎『長井健児を覚えていますか』(集英社、2009年9月)



 
  注記

 
  一九八九年5月26日に開かれた第四〇回の記者会見で、ビルマ軍事政権は国名を「ミャンマー」に変えると発表した。しかし民主化運動勢力や少数民族武装勢力の指導者たちは「ビルマ」という呼称を使い続けた。彼らは国際社会に対しても「ビルマ」を使うように求めた。軍政に国名を変える権限はないというのが理由だった。したがって本書でも、引用部分を除いて「ミャンマー」ではなく「ビルマ」を使用した。    軍政はビルマの町や地域の名前も変えた。ラングーンは「ヤンゴン」、イラワディは「エーヤーワディ」、メイミョーは「ピンウールィン」となった。またカレン州は「カイン」、カレンニーは「カヤー」となった。本書では原則として古い方の表記を使った。つまりヤンゴンではなくラングーン、エーヤーワディではなくイラワディ、カインではなくカレンといった具合だ。ビルマ国外の読者にとってはそのほうがわかりやすいからである。  
  出典はすべて原注に示した。出典がない場合については、情報提供者から直接聞き取ったことだと理解してほしい。情報提供者は匿名の場合もある。また、ある事柄については原注で明瞭化するか、説明を加えた。
p.6

ベネディクト・ロジャース◆秋元由紀訳◆根本敬解説 『ビルマの独裁者 タンシュエ』( 白水社、2012年 )



第2節
 
ミャンマーのビルマ化

1.ビルマ語のミャンマーとバマー

  ビルマ語のミャンマーもバマーも、元をただせば同じ言葉である。バマーの語源はミャンマーで、話すときにはバマー、書くときにはミャンマーが使われる。日本語ではバマーではなく、ビルマというのは、この名前がヨーロッパ経由で入ってきたからである。19世紀はじめまでは英語でも Birmah と綴られていたが、その後、Burma と書かれるようになり、たとえば1962年に設立された ◆◆◆ ミャンマ(ー)・ソーセリッ・ラーンジン・パーティー」は英語では 「Burma Socialist Programme Party」 となる。日本では、これを「ミャンマー社会主義計画党」ではなく「ビルマ社会主義計画党」と訳してきた。
 
  問題なのは、ミャンマーもビルマも記号内容(シニフィエ)は同じであるのに、1988年に設立した政権が、ミャンマーは国家やそこに暮らす在来住民全体の、ビルマ(バマー)はミャンマーに暮らすシャンやカレンやモンなどと同じ1民族の記号表現(シニフィアン)としたことである。つまりミャンマー人というカテゴリーの創出と言ってよい。ここから、ミャンマーは多種多様な人々よって構成されるとしながらも、現実にはこれらを国民化する過程で、そのビルマ化が推し進められるのではないか、という疑念が生じることになる。

  インドネシアのように第3言語による、第3民族の想像による、国民の統合化ではない。多くの国民国家がそうであるように、民族表象は観光資源として残しつつも、実質的には主要民族への同化政策となってしまう。ただ同化なという概念や、民族が民族を支配するという事態は、近代になって生まれた現象である。ミャンマーにおいても、パガン時代以降ビルマ族がこの国を支配してきたという考え方は、植民地期に成立したものである。もちろんモン族やカレン族がその支配下に置かれていたという語りも、これから派生した考え方にほかならない。遅くとも18世紀までは、ある政権つまり国王とその取り巻きが支配したというのが現実であった。

  また仏教徒化すなわちビルマ化であるという批判があるが、南伝上座仏教とて、これを住民統治の手段として、排他的に利用されるようになるのはニャウンヤン期以後のことであり、ミャンマーはビルマ人仏教徒の国という概念は、植民地期に確立したものであった。独立後は国民統合のための文化の一元化を図る必要があり、住民にメジャーな南伝上座仏教が重視され、その他の宗教は周辺化されていったという事情がある。異教徒に対する政府の対応は宗教弾圧というより、住民の国民化政策から生じたものであると言えよう。

 
  2.ビルマ語の国語化

  ビルマ語が国家の言語として意識されるのも植民地時代後半になってからであり、独立時になって公用語とされる。ネーウィン体制下では、ビルマ語による識字向上運動が展開され、80年代以降は、周辺の少数民族居住区にも拡大されていく。

 本書では教育政策について項を立てて解説することはできなかったが、独立以来教育は、国民国家の例に漏れず政府の責任のもとに進められてきたが、その際教授用語はビルマ語に統一し、初等教育では民族固有の言語(母語)での授業が認められた。とはいえ母語で学べるのは小学校2年生までのカリキュラムの3分の1に限られ、3年生以降はすべてビルマ語となる。しかし1973年には、幼児級からすべてビルマ語のみによる授業となった。母語の教育は各エスニック・マイノリティに任せられるが、その扱いは冷たい。名実ともにビルマ語が国語となっていく。  植民地時代に出版されたビルマ語による文学作品も、仏教文化を核として形成された「ビルマの伝統」への回帰を訴えるものが多い。  
《略》
伊藤利勝編 『ミャンマー概説』( めこん、2011年 )



(1) 本書では現在の国名をミャンマーとし、日本語で慣習的に用いられ定着しているものについてはビルマを使用する。またこれらの語の使用には政治的な意味を含むものではない。
飯國有佳子『ミャンマーの女性修行者ティーラシン』( ブックレット 《アジアを学ぼう》 (22) 風響社、2010年)



 国名をビルマにする理由については、少し説明が必要であろう。一九八九年六月一八日、ビルマの軍事政権は対外向けの英語国名をそれまでの Burma(バーマ)から Myanmar(ミャンマー)に変更する旨、国営新聞等を通じて宣言した(国内向けのビルマ語名は一九四八年の独立時より「ミャンマー」)。その理由として示された見解は、Burma の元であるビルマ語の「バマー」が狭義の「ビルマ民族」しか指さないのに対し、「ミャンマー」は少数民族を意味するというものであった。
  しかし、この説明には歴史的な根拠がない。ビルマでは古くから碑文などの書き言葉で「ミャンマー」が使われる一報、話し言葉では「バマー」が使用されてきた。英語の Burma はこの口語体のビルマ語「バマー」の影響を受けたものである。オランダ語やドイツ語では Birma と表記され、日本では明治初期にオランダ語表記を通じて「ビルマ」という呼び方が導入された。問題はビルマ語の「ミャンマー」(文語」)と「バマー」(口語)がそれぞれ何を意味したかである。実は、歴史的に両者が意味してきたものは狭義の「ビルマ民族」(ミャンマー民族)と彼らが住む領域であった。すなわち、現在でいう「少数民族」(カレン人、シャン人、カチン人等)や、それらの人々が住む領域を含む概念としては使われてこなかったということに留意すべきであろう。軍事政権の説明はこの点を無視している。
  一方、軍政の基盤であるビルマ国軍の誕生と密接な関係を有した一九三〇年代の有力ナショナリズム団体のタキン党は、口語の「バマー」こそ「英国統治下ビルマにおける被支配民族すべて」(すなわち「ビルマ国民」)を指すと定義し、積極的に独立運動で使用した史実がある(第一章5参照)。軍事政権はこうした歴史的背景にもいっさい触れていない。
 このほか、日本語の問題として、「グレート・ブリテインおよび北アイルランド連合王国」を古くから「イギリス」「英国」と呼んでこれまで問題がなかったように、明治期以降、国語表現として定着した「ビルマ」という呼び方をわざわざ「ミャンマー」にかえなくても本質的な問題はないという考え方もある。また、反軍政の立場から、クーデターで登場した軍事政権が国民の賛否を問うことなく対外的な国名を変更したことは民主的で認められないとして、英語表記においてはいまでも Burma を使う人々が多くいる(在日ビルマ人活動家の場合、日本語表記では「ビルマ」を用いている)。アウンサンスーチー氏も英語で書いたりしゃべったりするときは Burma を使い続けている。
 国連での公式英語表記は一九八九年六月以降「ミャンマー」であり、日本でも同時期に国会の承認を経て政府が「ビルマ」の使用をやめ「ミャンマー」を使うようになっている。国内のマスコミも原則それに従っている。よって、この事実を重視すれば「ミャンマー」を使う方が正しいということになろうが、本書はこれまで述べた歴史的経緯と日本語の従来表記の重要性を尊重し、「ビルマ」を用いることにする。

PP.16-17 根本敬『抵抗と協力のはざま』(岩波書店、2010年)



ビルマか、ミャンマーか
 このブログでは、難民の出身国を、「ミャンマー」ではなく、「ビルマ」と表記する。

主要なメディアがミャンマーと報じることもあってか、よく耳にするのはミャンマーという呼称だろうか。それとも、第二次世界大戦での「ビルマ戦線」や『ビルマの竪琴』を見聞きしたことのある人には、ビルマの方が、馴染みがあるだろうか。

ビルマとミャンマー、ふたつの呼称にはどんな違いがあるのか。 私が使っているパソコンの変換ソフトで、「ビルマ」と入力すると、自動的に赤字で≪地名変更「→ミャンマー」≫と表示され、「ミャンマー」と表記するようにうながされてしまう。 これはたんなる地名の変更なのだろうか。これには、どんな意味があるのだろうか。

英語呼称の変更
ビルマからミャンマーに変更されたのは、1989年のことである。 ただし、このとき変更されたのは、英語の対外呼称である。つまり、英語での国名を、 Union of Burma から、 Union of Myanmar に変更したのだ。たとえるなら、 Japan という英語名を、 Nippon に変えたというようなものだろうか。

政府はその理由を、「ビルマはビルマ族だけをさすので、ミャンマーの方が多民族国家をあらわすのにふさわしい」と説明した。国連がこれを受理した後、日本政府はいちはやくこれを受け入れ、続いて日本のメディアも、「右にならえ」で一斉にミャンマーと表記するようになった。

先進諸国のなかで、ミャンマーの呼称を用いているのは、日本だけである。

しかし、このプロセスには、ひとつだけ「ウソ」がある。

政府の「ミャンマーの方が多民族国家をあらわすのにふさわしい」という説明である。

歴史学や近現代史の諸研究では、ビルマもミャンマーも、多数派のビルマ族しかささないことが明らかになっている。そもそも、ミャンマーという呼称が、1989年になって突然でてきたわけではない。1948年、ビルマがイギリスから独立するときのビルマ語の国名は、「ピダウンズ・ミャンマー・ナインガー(ミャンマー連邦)」で、英語名が Union of Burma (ビルマ連邦)であった。さらに、このふたつの呼称には、話し言葉(ビルマ)と書き言葉(ミャンマー)程度の違いしかない。

だから、「ミャンマーの方が多民族国家の名称としてふさわしい」とする政府の説明には、ウソがある。

ビルマという呼称を使う人びと
では、これらの呼称をめぐって、なにが問題になっているのか。

ビルマは、世界でも悪名高い軍事政権国家である。ビルマは、東南アジアのなかでも最大級規模の軍隊を維持し、タンシュエ国家平和発展評議会議長が、実権を握っている。ジャーナリストの長井健司さんが殺害された2007年の弾圧は、ビルマ国軍の銃口が自国民に向けられていることを、私たち日本人にも知らしめることになった。

ビルマ国内外の民主化を求める人びとは、国民の同意を得ない国名変更を認めていない。それは、政治、経済、社会、生活のあらゆる側面を強権的に推し進める政府に、反対する立場表明である。タイで、難民として生活する人びとも、ビルマと呼んでいる。私が、ビルマを用いるおもな理由は、この点にある。

研究者のポジション
こうした見地から、「ビルマかミャンマーか」は、当人の政治的立場を示す踏み絵のようになっているといわれることもある。研究するものとして、「中立的ではない」と言われるかもしれない。

しかし、まったくの中立的な研究などあるのだろうか。対象を批判的に検討しつつ、それと向き合うさいに、なんらかの立場を表明することは、避けては通れない問題ではないだろうか。

なによりも、ミャンマーとして国家建設を図る現政権の正統性はどこにあるのか。国内の政治、経済、社会の諸側面を注意深く検討してみても、現政権が国民を代表しているとは、とうてい思えない。数十万人規模の難民が流出している事実を、どのように正当化できるのだろうか。

政府という上からの目線ではなく、そこで暮らす人びとの目線に寄り添いながら、物事を見ていくのが、人類学の基本的な姿勢であるはずだ。 だから私は、ビルマという呼称を用いる。.

久保忠行『いつか、どこかへ』
http://www.shimizukobundo.com/category/sometime-somewhere/
2010年7月30日(金)



凡例 1.国名について
 1989618日にミャンマー政府は英語の国名を Burma から Myanmar に変更すると発表した. それにしたがって日本でも「ミャンマー」という呼称が次第に使われるようになり、今ではどちらかといえば「ミャンマー」がより一般的になりつつある. よく知られているように, この英語名称の変更が軍政によるものであったため, 国名の表記を政治的党派性の表明と受け取る風潮が一部である. 本書では, 国名をめぐる議論とは無関係に, 本書が考察対象とする時代には, 「ビルマ」という名称が一般的であったことから, 1989年以降について言及する時も含めて、便宜的に「ビルマ」という国名に統一する.
 ちなみに, 「ビルマ」を意味するビルマ語の「バマー」(bama)はどちらかといえば口語的で, 「ミャンマー」(myanma)は文語的な用語という違いしか本来はない. そのため, 国名, 組織名では「ミャンマー」と「バマー」が明確な区別もなくしばしば併用されてきた. たとえば, 本書に登場するビルマ社会主義計画党は英語訳では the Burma Socialist Programme Party と「ビルマ」であるが、ビルマ語名をローマ字化すると myanma hsosheli lanzin pati と「ミャンマー」が使用されている.
 なお, 国名と民族名との混同を防ぐために, 本文中では民族としての「ビルマ」についてのみ「ビルマ族」という名称を用いる(表中では「ビルマ」を用いる). 他の民族ついては「カレン」「カチン」「シャン」など「族」はつけない. 地名についても1989年に変更があったが, すべて英語名の変更であり, ビルマ語については変更がないので, ビルマ語に近い発音のカタカナ表記を用いる. したがって, たとえばヤンゴンはかつて英語表記にならって日本でもラングーンと呼ばれていたが, ビルマ語ではずっとヤンゴンと呼ばれていたので, 本書でも原則としてヤンゴンという呼称を用いる.

中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』(京都大学出版会、2009年)



国名について、一九八九年六月に軍事政権(国家法秩序回復評議会=SLORC)が英語の国名表記を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更して以来、日本では機械的に「ミャンマー」を採用するケースが増えているが、本書では「ビルマ」を用いることとする。収録した報告書・エッセイの原文において Burma(ビルマ)が用いられていることが主な理由だが、ビルマ近現代史の研究に基づき、教義のビルマ民族以外の少数民族を含めた「バマー」の英語表記として用いられてきた歴史的経緯と、日本語としても定着している「ビルマ」を用いることとする (根本敬『アウン・サン──封印された独立ビルマの夢』岩波書店、一九九六年)

 六、地名についても表記が変わっているが、本書では英語オリジナル版で用いた地名を統一させるため、現在通用している名称のビルマ語発音で統一し、適宜、変更前の地名を第T・U部の初出時に( )で示している。ただしこれは便宜上であり、本書の立場としては民主化運動を否定するものではない。また地理的・文化的な地方を指す場合、「南」「北」ではなく、「上ビルマ」(古都マンダレーを中心とするイラワディ川中流域)、「下ビルマ」(デルタ地帯や沿岸部)が用いられており、本書でもこの表現をもちいている。 PP.9-10

守屋友江翻訳 『ビルマ仏教徒 民主化蜂起の背景と弾圧の記録』 (明石書店、2010年)

根本敬 解説
ダニエル・シーモア、箱田徹 (ビルマ情報ネットワーク) 翻訳協力



= 'Burman' or 'Myanmar'? - It has been argued by the military that 'Burma' refers only to the majority Burman population, wheres 'Myanmar' is more inclusive and therefore, more appropriate because it refers to all the peoples of Myanamr. Ironically, Burmese nationalities fighting British colonialism in 1936, argued the reverse. Therefore, as far as the non-Burmans are concerned, thr real question is not what the country is called but what political system will include the non-Burmans?

'THE NON-BURMAN ETHNIC PEOPLE OF BURMA' by Harn Yawghwe(Director Euro-Burma Office),
"PEACEFUL CO-EXISTENCE:Towards Federal Union of Burma"
,2002



 文庫版あとがき
 最後に注釈を二つだけ。
 私は一九九八年刊行の本書では「ビルマ」と書いているが、最近では「ミャンマー」と表記している。この“変節”はどうしたのだと思われる読者もいると思う。  民主化支持者はビルマといい軍事政権を認める者はミャンマーといいはっている、と印象を持つ人も多いと思うが、そもそもそうではない。
  本文で記したようにビルマ(バーマ)とミャンマーは同じ言葉の文語と口語というちがいしかない。もともとどちらでもいいのである。ただ、日本語でビルマと親しまれているので、それはわざわざ変える必要はないだろうというのが私のスタンスであった。
 ところが、最近は周囲の日本人は─戦争体験者も含め─みんな「ミャンマー」と言うようになり、私自身がそれに慣れてしまった。言葉が変わるのはなんと早いことか。
  なによりミャンマー人の言葉の使い方自体が、変化していることである。四年前に私はビルマのカチン州をカチン独立軍という反政府民族ゲリラと一緒に二ヶ月歩いてインドまで行ったが、そのとき英語のできるカチン軍の若い将校はこの国全体のことを「ミャンマー」と呼んでいた。軍事政権の主張を認めているわけではもちろんない。彼らゲリラが「ビルマ」というときは「ビルマ人の住む地方」という意味でイコール「敵地」である。ミャンマーのほうが少数民族を含めたニュートラルな「国」を指す感じがするらしい。
  さらに、つい二年前だが、なぜか私はビルマの政府軍支配区、つまり一般の外国人が行けるようなところを、当時は軍事政権の中核をになっていた軍情報部の人々と一緒に旅をするはめになった(その奇天烈な展開は『ミャンマーの柳生一族』(集英社文庫)でお読みいただきたい)。彼らのうち、年配の運転手は「オレは、“ミャンマー”よりも、“ビルマ”のほうが好きだ」と断言したので驚いた。他の人たちも何も言わず笑っていた。
 結局、最近になってわかったことは、ビルマ民族にしても少数民族にしても、若い人たちは比較的ミャンマーと言い、年配者は慣れ親しんだビルマという呼称を使うということだった。
 要は慣れの問題でしかないのだ。時代によって、政治的(ナショナリズム的)なニュアンスがちょっとばかりつくだけだ。読者の方々には「ビルマとミャンマーのちがいは、ニッポンとニホンのちがい程度である」とお考えいただきたい。
 もう一つ、親本では『ビルマ・アヘン王国潜入記』だったが、文庫化に際して、「ビルマ」の三文字をはずした。ミャンマーかビルマかという問題ではない。
 もともと私が最初につけたタイトルは「アヘン王国潜入記」だった。それを版元が「場所を明記しないと、ニューヨークの裏社会とか歌舞伎町とかと誤解される」と主張し、私も納得したという経緯があった。
 だが、私はついにそれに馴染むことができなかった。なぜなら、本書をお読みになった方はもうご承知だと思うが、ワ州は ビルマではなかったからだ。今はともかく、当時はビルマの影響などまったくない、まさに「独立国」だった。
 アイ・スンも、アイ・ムンもビルマという国を知らなかった。ビルマ語を聞いたことがなかった。ビルマ人を見たことがなかった。ビルマのお金を見て、「これは何だ?」と私に訊いた。
 そういう事実を大切にして、私はこの本を書いた。「ビルマ」をとったことで、彼らとの思い出をあらためて深くかみしめている。
(PP.377-379)
高野秀行『アヘン王国潜入記』(集英社文庫、2007年)



 (「ミャンマー」と「ビルマ」については人によっていろいろな考え方があるが、本書ではこの国を「ミャンマー」、国民を「ミャンマー人」と呼ぶことにする。つまり、その中にビルマ語を母語とする多数民族の「ビルマ人」と諸々の少数民族がいると考えていただきたい)
(P.14)
高野秀行『ミャンマーの柳生一族』(集英社文庫、2006年)



ビルマか ミャンマーか

 1948年、「ビルマ連邦」として英国から独立したこの国は、1974年には新しい社会主義の憲法が発効し、国名も「ビルマ社会主義連邦共和国」となりました。しかし1989年、軍事政権は英語の国名を「Union of Myanmar(ミャンマー連邦)」とし、当時の首都の名前もラングーンからヤンゴンに変更すると発表しました。変更の理由について軍事政権は、Burma がビルマ民族のみを示すような印象を与えるため、多民族国家であるこの国の名称としてはミャンマーの方がふさわしいと述べています。つまり、ミャンマーはビルマ民族のみならず他の少数民族も含むという見解です。後で説明しますが、『アウン・サン−封印された独立ビルマの夢』(本誌p41参照)の中で根本氏は、この軍事政権の見解には無理があると述べています。
 民主活動家などは、ミャンマーという国名は、以前から使われてきたビルマ(英語でバマー、ビルマ語ではバマーと発音、日本語のビルマという発音はオランダ語から来たもの)という名称を軍事政権が勝手に変更したもので認められないと主張しています。もちろん在外ビルマ人の間でもそう考えている人は少なくないようです。
  1988年に軍事政権をいち早く認めた日本政府は、ミャンマーを使っています。国連(国が自ら名乗っている名前を尊重するという見解)やフランスもミャンマーです。しかし、国によっては、米国や英国などビルマを使っている国もあります。「ビルマ民主化運動では『Burma』の方が好んで使われています。その理由は、選挙で選ばれたわけでない軍事政権が行った国の公式名称の変更に、正統性を与えられないということです。国際的にはどちらの名前も認識されています」。またBBC(英国放送協会)は旧名を使っていますが、多くの人々がミャンマーやヤンゴンよりもビルマやラングーンという名前を使い慣れているからという理由を挙げています。(*)
  実はこの「ミャンマー」と「バマー」は、前者が主に書き言葉で後者が主に話し言葉という違いになるそうです。会話で使われる場合でも、例えて言えば「にほん」と「にっぽん」のような違いになります。国内での名前には、英国独立時からのミャンマーが使われています。
 根本氏はその著書の中で、そもそもミャンマーもバマーも本来はビルマ民族(教義のビルマ人)を指すとして説明しています。そして同氏がビルマを使う理由として、この国の近現代史において重要な役割を担ってきたタキン党やそのメンバーが、むしろバマーの方を少数民族を含めた「ビルマ国民」という意味合いで使用して反英運動への結束を高めようとした意図があり、その歴史的経緯を重視しているからだと述べています。この経緯を示しているのが、独立後の国名はビルマ連邦、国家でもビルマを使用していることで、少数民族も納得してきた部分があるのではないかと説明しています。
 ビルマとミャンマーという国名は、実は言語、歴史、政治、運動と、人によってさまざまな思いやこだわりが込められて使われている言葉なのです。 *http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/7012943.stm

New Internationalist JAPAN ニュー・インターナショナリスト日本版 No.99 2008年6月20日、汐文社



訳者あとがき
 
 国名について、「ミャンマー」が広く用いられているが、この本ではアウンサンスーチーおよびNLD指導部層の言い方に従い、「ビルマ」で統一した。軍事政権は、九〇年、英語の国名表記を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更したが、国民の支持をえていない軍事政権が一方的に行った国名変更は認められないとNLDは主張しており、この立場を尊重することにした。 P.331

アウンサンスーチー『希望の声』(大石幹夫訳、2000年、岩波書店)



(2)
 軍政は 1989年 6月に英語表記の国名を The Union of Burma からThe Union of Myanmar へと変更した(ただし、現地語表記には変更なし)。 これに対して、正統性のない政権が国名を勝手に変更すべきでないとして論争となった。現在も欧米のメディアなどでは Burma を使い続けている。 しかし、「社会主義」を国名からはずすことに関しては、民主化勢力からも異論はない。
(工藤年博編 「序章」P.23 『ミャンマー経済の実像』−なぜ軍政は生き残れたのか−アジア経済研究所、2008年3月)



「軍事政権VSスーチーさんではみえてこない複雑事情 ミャンマー(ビルマ)の政治情勢」
 ※「ミャンマー」という国名は現在広く普及していますが、軍事政権の一方的な改称によるもので承認しがたい、ということから改称前の国名「ビルマ」が使われることもあります。政治の基礎知識を紹介することを趣旨とする本ページでは混乱をさけるため、ミャンマー(ビルマ)という表記をします(一部の固有名称はのぞく)。
 辻 雅之「よくわかる政治」
 "All About" 
  All About > ビジネス実用 > よくわかる政治 > 軍事政権VSスーチーさんではみえてこない複雑事情 ミャンマー(ビルマ)の政治情勢 理」
掲載日: 2002年 05月 22日
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20020522/index.htm



「コラム1 ビルマとミャンマー」
  「ビルマ」はオランダ語からの借用語で、日本では明治初期から使用されてきた。一方、ビルマ語の「バマー」「ミャンマー」はともに、ビルマの国土に居住する多数は民族ビルマ族(バマー族・ミャンマー族)をさす。12世紀の碑文には「ムランマー」との民族名が見られるというが、16世紀にビルマを訪れたポルトガル商人の手記にも「ブラマー」との民族名が見られる。「ムランマー − Myanmar」は文語の「ミャンマー Myanmar」に、「ブラマー − Bramar」は口語の「バマー − Bamar」になったと見ることができる。ビルマ語では b音 から m音 への、r音 から y音 への転化も珍しいことではない。すなわち両者は同義の民族名であり、両者の間には「ニッポン」と「ジャパン」ほどの差もない。1948年の独立後もそれらはともに国名として使用されてきた。
  1989年、軍事政権は国名の英語表記を Burma から Myanmar に変更した。その根拠に二は、「バーマ(バマー)」が一民族であり、「ミャンマー」が全国民をさすことを挙げている。このような根拠が挙げられること自体、きわめて政治的な意味合いを持つ。日本の報道機関はこれにならって、一斉に国名を「ミャンマー」としているが、この変更の根拠や、変更を行った軍事政権を容認しない人々は、従来通り英語では Burma、日本語ではビルマを使用する。ただ前述の通り、ビルマの人々は、元来一民族での名称である「ミャンマー」「バマー」を独立以来ともに国名として使用してきたので、ALTSEAN-BURMA が発行する原著のビルマ語は従来通り、「ミャンマー」「バマー」なるビルマ語を併用し、英語版では Burma を使用している。翻訳にあたっては、英語版で Burma が使用されているところでは「ビルマ」を使用した。
  藤目ゆき:監修/タナッカーの会:編/富田あかり:訳
『女たちのビルマ』(P.96、明石書店、2007年12月)論理」



 旅を始める前にどうしても断っておかなければならないことがある。少しでもビルマに関心のある人なら、いくどとなく耳にしていると思われる国名についてである。  
  パソコンで「ビルマ」と入力すると、親切にも「地名変更→ミャンマー」と表示してくれる。そう、少なくとも日本の辞書ではビルマという国はこの地上から消滅したことになっている。 
  現在の政府が突然、英語の国名をイギリス植民地時代から使われている「Burma (バーマ)連邦」から「myanmar (ミャンマー)連邦」へと変更したのは1989年6月のことだ。変更の理由は、「バーマ」というとビルマ人の国家という意味になる。しかし、ビルマには多くの少数民族が暮らしている。それには古くから使われている「ミャンマー」のほうがふさわしいという。一見もっともらしく聞こえるが、そこにはある企みがあるといわれている。
  1988年、クーデターによって政権を奪取し、その後も恐怖政治によって政権の座に座り続けている現在の軍事政権を、欧米を中心とした国際社会は正式な政府として認めようとしなかった。そこで政権はひとつの踏み絵を用意した。それが国名をはじめとした地名の変更だった。国名のほかに、たとえば首都「ラングーン」は「ヤンゴン」に、ビルマを貫く大河「イラワジ」は「エーヤワディ」。そんなふうに聞き慣れた地名の多くがこの日を境に別の名前へと変えられていった。  ビルマ人に尋ねてみると、「バーマ」も「ミャンマー」ももともとは同じ意味だそうだ。話し言葉と書き言葉が異なるケースが多いビルマ語では、「バーマ」という言葉が口語であるあるのに対し、「ミャンマー」は文語、つまり文字に書くときに使われる機会が多い、その程度の違いだという。日本の国名を「ニホン」と呼んだり「ニッポン」と呼んだりするのと大差がないようだ。それを聞くかぎり、少なくとも少数民族を含めた連邦国家であることを示すために国名を変更したという説明には、かなりの無理がある。
  国名にどこまでこだわるべきか、悩ましい問題である。ある国が自分の国をどう呼ぼうと、外国人がとやかく言う問題ではないという思いもある。しかし、地名を改ざんするということは、結局、人々の記憶を改ざんするということである。地名が変わることで、その土地が背負ってきたさまざまな歴史の記憶が消されていく。こうした記憶の改ざんが国民の支持のない独裁政権によって行われ、しかも国際社会に対する踏み絵としてなされているのなら、やはり書き手としては慎重に、そして自覚的に洗濯する必要があると思う。
  たとえば、アメリカやオーストラリアは国家レベルではビルマの国名変更を認めていない。中国も従来から使っている「緬甸(ミエンディエン)」のままだ。また、『ワシントンポスト』(米)、『ル・モンド』(仏)、『バンコクポスト』(タイ)など世界の名だたるメディアも旧名の「バーマ」を使い続けている。こうした世界の流れの中で、日本だけが政府の方針に無自覚に従い、ほとんどのメディアが「ミャンマー」という呼称に変更してしまった。しかも、ビルマ政府が変えてほしいといったのは、英語名の「バーマ」であって、オランダ語経由の日本語である「ビルマ」ではないにもかかわらず・・・・・。

瀬川正仁『ビルマとミャンマーのあいだ』
(PP.14-16、凱風社、2007年10月)


1988年9月18日のクーデターによって登場した軍事政 ・・・ 日付けの法律で、国名をミャンマー連邦(Union o Myanmar ・・・ )た。国名における「ミャンマー」という呼称の法律による使用強制に関して、軍事政権は、「バマー(Bamar)」は狭義のバマー(ビルマ)族を指す呼称であり、「ミャンマー」は国内に居住する土着民族全てを指すためであると説明を加えている。軍事政権側の論拠に関しては、薮司朗「ビルマ語−形式ばらないことば」(『地理月報駆382号、1990年10月)9ページで指摘されているように、説得力を持ち得てはいない。しかし、本稿では、国名に関しては、日本での「ミャンマー」使用が定着しつつあるため、これを用いる。その他の固有名詞に関しては、ビルマ語で「バマー」とある場合あるいは英語で「Burma」とある場合は、日本での従来の用法通り「ビルマ」を用いることにした。また、演説等の引用文で、「バマー」が用いられている場合にも「ビルマ」と訳出した。
(伊野憲治「ミャンマー反政府・民主化運動における学生の論理」    −「全ビルマ学生連盟連合」を中心として−、注 1.、p.53、)
<引用注:上記 「・・・」はコピー不備により判読不可>


(注) 現在、ビルマは「ミャンマー」という国名で一般に呼ばれていますが、一九八八年に武力で民主化闘争を鎮圧した軍事政権による国名の変更を、ビルマの民主化を目指す人々は正当性がないと主張し、今なおビルマという国名を用いています。私も現地で活動した三年間、軍事政権に弾圧される人々に携わり、日本に在留するビルマ人の友人たちの要望もあり、本文中の国名はすべて「ビルマ」と表記させていただきますこと、あらかじめご理解ください。また、本文中の現地スタッフや難民キャンプの人々の名前は、現在もプロジェクトが進行中であることを配慮してすべて仮称となっています。  また、文中のカレン語表記は、在日カレン人の方々にご指導いただきました。
(「はじめに」渡辺有理子『図書館への道』p.5、2006年)


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ビルマ語専攻
専攻の魅力
本専攻は、日本国内で、ビルマ語を体系的に学べる専攻としては2番目に、1981年に設立されました。ビルマ研究は歴史的に英国(ロンドン大学)が中心でしたが、その後フランス、米国などと並び、日本も有数の研究拠点と認識されるようになりました。本学の場合、ビルマ関係の常勤教員は3名(うち客員1名)ですが、AA研にも国際的に活躍するビルマ研究者(2名)がおり、言語、政治、歴史、経済、人類学といった幅広い研究が行われている点に特徴があります。
本専攻ではビルマ語の習得をまず目指し、さらに人文科学・社会科学のさまざまなディシプリンに触れて自らが学びたいことを探してもらうことを想定しています(3コースの選択は本学全体の説明にあります)。これは通常ディシプリンを先に学ぶ多くの大学と異なる出発点といえます。けれども、他者の言語をまず学び、他者との具体的な出会いを通じて、もっとも先鋭的に、自らの問題意識を持つことが可能となるともいえるのです。本専攻は、そうした生身の人との遭遇やぶつかりを恐れず、楽しんでみようという方の入学を期待しています。
教育・カリキュラムの特徴
ビルマ語専攻ではモジュール制に基づき、レベル、カテゴリー別に教育が行われています。初級・中級の目標は日常会話がこなせる口語基礎の修得です。教材は、市販の教材1点を除き、文法、読解、語彙集などすべてモジュール用に専攻独自で作成した教材を用いています。とくに1年前期の授業は、担当教員は相互に連絡しあい、集中的に文字、発音の基礎、初級文法を教えます。また、授業の約半分はビルマ人教員が受け持ち、TAの補助を受けながら、徹底して発音、会話指導を行います。・・・・・。
卒業後の進路
卒業生は企業、国際金融、マスコミ、NGO、外務省をはじめとする公務員職、研究職などさまざまな分野で活躍しています。ビルマに滞在、駐在し、それぞれの仕事に従事している卒業生も少なくありません。
東京外国語大学東南アジア語課程 ビルマ語専攻
ビルマってどんな国?
ビルマ(ミャンマー)ってどんな国?

東南アジアの西端に位置するビルマ(ミャンマー連邦)、日本の1.8倍の面積と約4900万人の人口を擁するこの国は、不思議な魅力で訪れる人を捉えて離さないところがあります。開発の及んでいない豊かな自然、その中で営まれる人々の素朴な暮らし、知らない者にも向けられる親切、そして暮らしの中に息づく信仰と祈りに触れて、ビルマ・フリーク(昔はこれをビル・キチといいました)になった人も少なからずいます。そこまで行かなくても、ビルマの文化に深く触れると、そこに開発至上主義の現代世界を問い返してくる静かな力を感じることでしょう。

一方で国としてのビルマは、今なお大きな苦しみの中にあるといわねばなりません。1世紀に及ぶイギリス植民地支配、そして日本軍政を経て1948年に独立して、はや半世紀以上の時が流れていますが、多数民族と少数民族との対立、経済の停滞、そしてアウンサン・スーチーさん率いる国民民主連盟と軍政の軋轢、これらの国民国家形成途上の苦しみからなお脱していません。こうしたビルマにもグローバル化の波は及び、様々な変化が生じ、今ビルマは大きな変化の節目にあります。こうした変化を見つめ、ナショナリズム、国民統合、グローバル化、開発など現代世界の諸問題を学んでみませんか。



大阪外語大学 学校紹介 (2006年2月10日現在)より
外国語学部 地域文化学科
[東南アジア・オセアニア地域文化専攻 昼間主コース]
人と経済・文化の交流高まるインドネシア、フィリピン、タイ、ベトナム、ビルマの言語をいずれか学び、さらに幅広い地域の様々な分野にわたる知識を深め、国際社会に活躍できる人材を育てます。
[アジアII講座教員一覧]
ビルマ語
教授   藪 司郎(Shiro YABU) (専攻語代表)
教授   南田 みどり(Midori MINAMIDA)(副学長)
助教授   加藤昌彦(Atsuhiko KATO)
外国人教師   ミャ マウン(Mya Maung)
大阪外国語大学 ビルマ語専攻のページへようこそ
ビルマについて
ビルマ語についてのページにも書いたように、私達の研究対象はあくまでも「ビルマ語文化圏」であり、それをビルマ(ミャンマー)という国家に直結させて考えるのは必ずしも適切ではありません。しかし、ビルマ語文化圏と呼ぶことができる地域のかなりの部分はビルマ連邦と重なっているので、当然のことながら、ビルマ語文化圏を研究するときにはビルマという国家についての知識が必要です。ここではビルマという国について少し解説しておきましょう。

ビルマ(ミャンマー)は東南アジアの最西端に位置する国で、文化的にはインドの影響を色濃く受けています。主たる産業は農業です。面積は日本の2倍近くあります。ビルマというと日本では熱帯の国というイメージを持たれていますが、南北に長いことと高度差が大きいことのため、自然環境は多様です(最北端の風景はこちら。最南端の風景はこちら)。最北端にはヒマラヤへとつながる山岳地帯があり、ここには1年中雪が積もっています。国の真ん中あたりは東南アジアでも有数の乾燥地帯で、歴史的に見ると、ビルマ文化はこの乾燥地帯において高度に発達しました(右の写真は11世紀にビルマ族最初の王朝が成立したバガン)。首都のヤンゴンを含む南部の沿岸地帯は熱帯モンスーン気候で、年間2000mmから5000mmもの雨が降り、それが雨期の半年間に集中します。特にバングラデシュに近いアラカン地方やマレー半島の付け根にあるテナセリム地方は、世界でも有数の豪雨地帯です。

ビルマは多民族国家で、政府の発表によれば、全部で135の民族が住んでいることになっています。ただしこの数は、あまり正確ではありません。というのは、同じ民族に複数の呼称があるためにこれを別の民族として数えていたりするのと、逆に、違う民族なのに同じ民族として数えていたりすることがあるからです。また、未発見(というか未認定)の民族もまだまだいるようです。歴史的にも、モン、シャン、ビルマ、アラカンといった有力な民族の王朝がせめぎあい、互いに影響しあって独特の文化を創りあげてきました。

バガン朝(1044-1287)の時代から、ビルマは敬虔な仏教徒の国で、ビルマ族だけをとれば9割以上が仏教徒です。ビルマの仏教は、日本などの大乗仏教よりも原初的な形態に近いと言われる上座部仏教(小乗仏教)です。上座部仏教の国々はどこも敬虔な信者の多いことで知られますが、ことにビルマはその傾向が強く、ビルマに暮らしてみると、日本とは異なる宗教的雰囲気を味わうことができ、ついつい人生とは何かとか、幸福とは何か等について考えさせられます。

ビルマ最後の王朝であるコンバウン朝(最後の王都はマンダレー。右の写真はマンダレーのクードードー・パゴダ)は、1824年に始まるイギリスとの戦いで徐々に領土を減らし、最終的には1886年にイギリスの植民地になってしまいました。その後、日本の占領時代を経て、再び独立を勝ち得たのは1948年のことです。日本がこの国を占領していた(1942-45)こと、またこの国の国軍成立に大きく日本が関わったことなどは、日本人であるならば忘れてはならないことだと思います。また、イギリス・日本と続く占領時代に受けたビルマ人の心の傷は大きく、日本を含む外国に対する不信感が根強く残っていることは認識しておくべきです。非常に親日的な国で、我々日本人としては住んでいても心地良い国ではありますが、『新しい歴史教科書』(つくる会の教科書)が「これらの地域(=アジア諸国)では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった」と一言で済ましているような単純な状況ではないことは知っておいたほうがいいでしょう。

独立後この国は様々な困難に直面しました。共産党や少数民族等の反乱軍が跋扈し、この混乱を収拾するために、1962年、ネーウィンという軍人がクーデターによって政権を握り、その後、急速な社会主義化を進めます。この政権は鎖国政策をとり、また国内的には強圧的な政治を行いました。経済状態もどんどん悪化していきました。かつて東南アジアでも有数の豊かな国だったはずのビルマは、世界最貧国に認定されるまでになってしまいました。1988年、これに対する国民の不満が爆発し、全国規模の民主化運動が起こりました。このときイギリスからたまたま母の病気見舞いのために帰国していたアウンサンスーチーが民主化運動のリーダーとなっていきました。アウンサンスーチーは、ビルマの独立に大きな貢献をし、またビルマ国軍の父と呼ばれるアウンサン将軍の娘です。アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)は総選挙で圧倒的な勝利を得ますが、ネーウィン政権の流れを汲む国家法秩序回復評議会(SLORC。現在は国家平和発展評議会 SPDC に改称)は政権を委譲せず、今に至っています。

ところで、このHPで「ミャンマー」という国名を使わずに「ビルマ」という国名を使う理由について述べておく必要があるでしょう。ビルマ政府は、1989年6月18日の法律によって、英語の対外呼称を Burma から Myanmar に変更しました。これに従って、日本でも、ビルマをミャンマーと呼ぶことが多くなりました。

実を言うと、ビルマ語現地音を尊重するという意味においては、「ミャンマー」を用いたほうが良いのです。ビルマ語ではビルマのことを[ミャ(ン)マー]あるいは[バマー]と発音します。日本語の「ビルマ」は、、[バマー]の古音に基づくヨーロッパ語(おそらくオランダ語)から江戸末期に入ったもので、発音としては現代ビルマ語の[ミャ(ン)マー]とも[バマー]とも大きく異なります。だから、現地音を尊重するという意味では、ビルマよりミャンマーを用いたほうがはるかに良いのです。

ではなぜミャンマーを使わないかというと、ビルマ政府が、ビルマ語の[ミャンマー]は国内に住むすべての民族を含む呼称であるかのように説明しているからです。この説明は嘘なのです。本当は、[ミャンマー]という呼称はビルマ族のことしか指しません。[ミャ(ン)マー]と[バマー]は、前者が文語的、後者が口語的という違いくらいしかないのであって、両方ともビルマ族を指す言葉です。政治史的には逆に[バマー]をビルマ国内のすべての民族を指す呼称として用いようとする動きさえありました。ところがビルマ政府は、ビルマ語ビルマ族を指す言葉が2つあったのを良いことに、他民族国家の呼称としては Myanmar のほうがふさわしいですよ、と説明したのです。この主張は、少数民族の立場を考えると受け入れがたいものです。もしここで、日本語のビルマをわざわざミャンマーに変更するなら、我々はビルマ政府の無理な主張を受け入れることになってしまいます。それならばむしろ、従来の日本語としての「ビルマ」を、現地音とは違うという憾(うら)みはありますが、使っていこうじゃないかということなのです。そもそも、ビルマ政府が変更したのは英語呼称の Burma なのですから。



I knew Burmese people who looked back on British rule with nostalgia - a nostalgia they might have felt had their present government treated them better. As for the Burmese government, it despised all things British. The 1962 military coup had ushered in a rabidly xenophobic regime bent on eradicating all Western cultural infuluences in the counrty. Foreign books were censored into extinction, Christian missionarires expelled, beauty contests outlawed; one female singer was even banned for five years for performing in hot pants. To neutralize any colonial associations in the word 'Burma', the country was renamed 'Myanmar'.

ANDREW MARSHALL "The Trouser People ", The quest for the Victorian footballer who made Burma play the Empire's game (PENGUIN BOOKS, 2002)




NOTES
2. In 1989, the military government changed the name of Burma to Myanmar. The use of either Burma of Myanmar has since become a highly politicized issue. The use Burma, which is the way the country is referred to in the large majority of the English language press and other publications.
Martin Jelsma, Tom Kramer, Pietje Vervest "TROUBLE IN THE TRIANGLE", OPIUM AND CONFLICT IN BURMA (SILKWORM BOOKS, 2005)



おわりに
日本では、幕末からエーヤーワーディー川流域地方に、中国から学んだ緬甸という漢字を充て、オランダ語の呼称に倣いビルマと呼びはじめた。英語でも19世紀はじめまでは、Birman や Birmah と表記していたし、日本語でも一時ビルマンやビュルマアと表記されたこともあった。しかし英語はその後すぐ、原音に近い Burma に変化したが、国家間はいざしらず民間レベルでの交流が少なかったにもかかわらず、日本でビルマがバーマや原音に近いミャンマーに改まることはなかった。
 ビルマという呼称が確立されるまでは、この地に琶牛、亜刺敢、阿瓦の3国が存在すると認識されていた。これらの国家や文化について、仏教が奉じられている土地、豊かな天然資源を有するという国というイメージも存在もした。ところが幕末になって、中華思想や西洋の植民地主義思想のもとで形成されたビルマ像が、取り入れられ始める。これは明治政府が、帝国主義的政策に傾斜していったことと無縁でない。民間レベルにおいては、これとは異なるビルマ像が存在したが、主流になることはなかった。
 日本はビルマを支配したという経験をもつ。その折りビルマについての情報は、日本に溢れかえった。その多くは、イギリス植民地主義思想によって加工された情報であり、戦争そして支配を正当化するための知識であった。イギリス植民地政策そのものは否定されたが、植民地主義思想はそのまま受け入れられる。明治以来、わが国のお手本だったからであろう。そして、その過程で形成されたビルマ観は、戦後も変わることなく受け継がれた。
 ビルマの住民にとって、きわめて不都合なビルマ・イメージを規定するアジア観は、日本人の血であり肉である。こうした他者認識を媒介として、日本人についての定義が形成され、アイデンティティ意識の中核に据えられてきたからに他ならない。この定義が揺るがない限り、直接現地に赴いても、これまでと同じ視点に立ってしまう。経験が世代を経て受け継がれても、それまでのイメージがなかなか改まらないということになる。さしあたり、日本人とは何かという問いかけを放棄するところから始めることが肝要であろう。
伊東利勝「日本におけるビルマ像形成史」(『愛大史学−日本史・アジア史・地理学−第14号』P.P.76-77, 2005年)



『 ミャンマーの人は、ミャンマー語を話して、ミャンマー料理を食べている 』 というのが訪問25回目のHさんであっても、やはり日本人の固定観念であるようだ。「ミャンマー」と言い替えても、そこにはビルマやシャンやパオーやカレンやその他いっぱいあって、それがそれぞれの言葉や料理や文化や歴史や習慣を持っていることになかなか気付いてもらえない。
(森 博行 「ビルマ紀行」 、「日本・ミャンマー友好協会」)





国名表記について

ビルマ政府は1989年、各国政府にタイして自国の英語呼称をこれまでの「 BURMA 」から「 MYANMAR 」に変更する旨通告したが、我が国では日本語として古くから「ビルマ」という呼称が定着している。それは例えば、UK(ユナイテッド・キングダム)あるいはブリテンを英国ないし英国、ドイッチェランドをドイツと呼称するように、日本人の私たちが、自国語の会話や文章で従前のように「ビルマ」という呼称を使用することは一向に差し支えないと私は考える。

日本では、マスコミも含めて、ビルマが国名を "改称" したと思いこんでいる人が多いようであるが、ビルマは1948年の独立以来、ビルマ語の正式国名は「ミャンマー」(雅言的な呼称。通常はバマーを使う)であり、89年のビルマ政府の通告というのは、あくまでもその英語呼称を「 MYANMAR 」としたいということであり、日本でなぜその英語呼称を使用しなければならないのか、私は理解に苦しむ。我が国の公用語は日本語であって、英語ではないはずである。

以上の理由によって、この旅行記において私は、従来通りの日本語の「ビルマ」という国名呼称を採用させていただく。なお同年、首都名はじめ英語風呼称を本来のビルマ語名に戻したものがかなりあるが、それも含めて、地名・都市名とうについては原則的に現在日本で一般に用いられる呼称に従った。
(田村旅人『豚が沐浴する国』新潮社、2000年)




昔に戻った地名
さてここで、ミャンマー語についてのべたついでに、「ミャンマー」と
「ビルマ」を初めとするこの国の地名の新しい呼び方と古い呼び方についても触れておこう。

ミャンマーとビルマ
ミャンマーは多民族国家であり、ビルマ族が全人口の69%と多数を占めてはいるものの、カレン、カチン、カヤー、シャン、モン、チン、ラカイン等数え上げると135の種族で構成されていることはすでに述べた。こうした民族構成とはかかわりなく、だいたい現在のミャンマー連邦が占めている領域を指して「ミャンマー」と称する呼び方あ古くから行われてきた。

11世紀から13世紀にかけて栄えたパガン王朝の時代に建立された無数のパゴダ(一説によると当時は4万基あったと言われる)は今でも2300基が残っているが、その内、いくつかは建立した王や寄進者の名前、日付等建立当時の記録が石に刻まれて残されている。

こうした当時の記録の内、あるパゴダに残されているものには「1190年インドとミャンマーの芸人及び音楽家が寄進せるものなり」との記述に続き、「ミャンマーの芸人」として3人の女性芸人の名前が刻まれている。これが多分「ミャンマー」という呼称がはっきりと記録に残されている最古のものであろうとされているが、このように少なくとも12世紀には「ミャンマー」という呼び方が使われていたことは確実である。

ここで言う「ミャンマー」あ当時のパガン王朝の支配領域を指して、国名として用いられていたものと思われる。当時の支配領域は今日のミャンマー連邦と完全に一致するものではなかったが、ピュー族やモン族を支配下に置いていたのは確かであり、「ミャンマー」がビルマ族以外の種族も含めた支配領域全体を指す呼び方であったことは疑いない。

中国は古来この国を「緬甸」とかいて「ミェン・ティエ」と呼び、中国の古い文献にもこの記述が残されてる。「甸」は「美しい場所」といった好ましい意味合いの語であり、従って「ミェン・ティエ」は「ミェンの人たちの住む美しい所」を意味し、この呼称が「ミャンマー」から来ていることは間違いない。

日本語では外国名を感じで記す場合、主に発音から該当する適当な感じを充てて、フランス語を「佛蘭西」、イタリーを「伊太利」という具合に表記するケースが多い。これは音声からくる当て字であるので、中国語での表記、つまりフランスを「法朗斯」(但し、「法国」と記すことが多い)、イタリーを「意太利」とするとは異なるのが普通である。

ところがビルマに関してあむしろ例外で、中国の表記「緬甸」を日本でもそのまま用いてきた。これを日本人は、この感じが本来もつ発音とは関係なく「ビルマ」と読んできたのである。つまりわれわれは「ビルマ」と書き表すのに、「ミャンマー」の中国語を充ててきたわけであるが、今やこの国の名前が「ミャンマー」に変わったので、これまでと同じ表記を用いてこれを「ミャンマー」と読めば、発音と表記がぴったり一致して、めでたし、めでたし、ということになる。

一方イギリス人が「ビルマ」と呼ぶ元になた「バマー」(Bamar)はビルマ族を指す呼称であるが、これが記録に表れるのはコウバウン王朝(18世紀−19世紀)である。やがてヨーロッパ人がこの地に到来するようになり、彼らが接触したのはビルマ族とその王だったので、彼らはそこで耳にした "Bamar" を "Burma" と英語化してこの国を「ビルマ」と呼び、この呼称が世界的に定着した。ただし中国人はこの間も一貫して「ミェン・ティエ」で通してきた。

1988年に成立した国家法秩序回復評議会政府はビルマ族だけに着目した「ビルマ」という呼称は適当でないので、民族構成とかかわりなく古くから用いられてきた呼び方を採用し、1989年に正式国名を「ミャンマー連邦」とすることにした。そのほか「ラングーン」を「ヤンゴン」、「モールメイン」を「モーラミャイン」、「ペグー」を「バゴー」、「プロム」を「ピエ」、「イラワジ河」を「エヤワディ河」にする等、イギリス流呼称のまま受け継がれてきた多くの地名を本来のミャンマー語の名前に戻した。
(山口洋一『ミャンマーの実像』勁草書房、1999年)




■日本政府が 「ビルマ」 → 「ミャンマー」 とした理由■

○ビルマ政府の呼称変更に従った。

では、ビルマ政府の説明とは:
(1)
「ビルマ」という呼び方は「少数民族」を含めた呼び方ではない。
「ミャンマー」という呼び方は「少数民族」を含めた国名。

(2)
「ビルマ」という呼び方は英国の植民地支配時代の呼び方である。

しかしビルマの専門家は:
「ミャンマー」がすべての民族を含むという説は無理がある。
<南田、藪、加藤、根本、伊野、田辺らのビルマ専門家>

また、日本語の「ビルマ」という呼び方は、英語の呼び方 「バーマ」から派生したのではなく、ポルトガル語(大野)/ オランダ語(藪)から派生したと考えられる。

ここで問題となるのは、(ビルマ政府が)英語の呼び方を変えたからといって、なぜ(日本政府は)日本語の呼び方を変更したのか。

日本政府は、どうしてビルマの現軍事政権の考え方に譲歩しようとするのか。日本にいる外務省の幹部は、日本政府がビルマ政府に大して影響力をもっていると信じているようだ。でも実際は違うようだ。

現地の日本大使館の幹部は、日本政府はビルマ軍事政権に対して影響力をもっていないと述べている。

Japanese influence? Japan has been widely credited with having influenced the SLORC (SPDC) decision to liberalise the economy, as well as several later political concessions, notably the release of Aung San Suu Kyi from house arrest in 1995. It would appear, however, that such interpretations are based more on the presumption of a 'special relationship' than on any concrete evidence. Japanese officials themselves appear uncertain about their influence. Also one senior diplomat from Embassy in Yangon noted recently:

When I first arrived a few years ago, I was shocked to discover that we had no influence whatsoever. I think that might have changed a little bit since, in [a] positive direction, for two reasons: First, we have done something. Secondly, the Myanmar government has become a bit more
receptive to voices from the outside.
However, our influence certainly is
not determing.

"MYANMAR: THE MILITARY REGIME'S VIEW OF THE
WORLD" 7 December 2001, ICG(International Crisis Group)

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■では、日本メディアが(例:朝日新聞)「ビルマ」→「ミャンマー」とした理由とはなんだろうか:

(1)民族主義の台頭や国内事情を考え、現地の呼び方を尊重する
(2)現地の発音に近い表記をとる
(3)慣用化した書き方は変えない−−の3点です。

しかし、上記の専門家は:

<「ミャンマー」は公式(文語)の、「ビルマ」は略式(口語)の言い方>:藪

<バマーは口語としてよく使われ、ミャンマーはもともとビルマ語の国称として使われているように文語的な表現である。>:田辺

<「ミャンマー」が主として文語表現であり、「バマー」が口語表現であるという違いで、・・・。>:伊野

<古来よりビルマもミャンマーも共にビルマ族を表し、国内では国名として双方とも従来から併用されてきたので、>:南田


私(ウダ)は2002年10月から2004年1月半ばまで、ビルマ全土6州7管区(7州7管区のうち、カヤ州を除く)を回った時、各地方で、「ビルマ」という呼び方を使ってみた。

「バーマルミョラ?(ビルマ人ですか)」と。

ヤンゴン管区では、「そうです、ビルマ人です」、 「いいえ、ビルマ人ではないです」というようにほとんどが「バーマ」とビルマ語で返って来た。

まれに「ミャンマールミョ(ミャンマー人です)」と返ってきたこともある。(「バーマ」と聞かれたら、「バーマ」と答え、「ミャンマー」 と聞かれたら「ミャンマー」 と答えるのが大勢であった)

ヤンゴン管区以外では、すべてがビルマ語で、「ビルマ人です」、「カチンです」、「カレンです」、「チンです」−あるいは、 「バーママホープ(ビルマ人ではありません)」と返ってきた。
 
ただ、以前に比べ、最近では、政府の広報が行き渡って来たのか、外国人を相手にするビルマ人(ホテルの従業員やツアーガイド) は口語でも、ミャンマーを多く使うようである。

日本のメディアが、上記の(1)、(2)、(3)の理由で「ビルマ」から「ミャンマー」と変更したのは現地の実情とは合致しない。

国名表記に関して、 この ビルマ語の特殊性−口語と文語では発音と表記が、かけ離れている−を十分に考慮しなければなら ないのではなかろうか。

ビルマおいて、現実的に軍事政権が強権的な支配を続けて いる限り、(援助方法やビジネスの仕方だけに限らず)、国名の呼び方ひとつをとってみても好むと好まざる似限らず、 政治的な意味合いを帯びてしまう。

また、日本で 「ビルマ」 あるいは 「ミャンマー」 を使う際に「政治的」な意味合いはないと強調したとしても、日本国内においてはビルマという国の情報が少ないという現実に照らし合わせると、「ミャンマー」表記のみを使うことで自動的に軍政の論理を支持していると取られかねない。  

外国人としてビルマとかかわる場合−旅行者・取材者・研究者・ビジネス−の立場はいろいろとあろうだろう。

私の個人的な経験では、ビルマ人(在ビルマ、在外ビルマにかかわらず)の大多数は軍事政権を支持していない。

「ビルマ」か「ミャンマー」の選択がある場合、ビルマの人びとの心情と困難を考えると、日本では従来通りの< ポルトガル語/オランダ語>の由来である日本語−「ビルマ」 と呼ぶのが、今のところ、ふさわしいのではないだろうか。


<参考>
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[019/021] 第118回-衆議院-内閣委員会-2号-
平成02年03月27日

日本社会党・護憲共同:志賀一夫

外務省大臣官房長:佐藤嘉恭
外務省アジア局長:谷野作太郎
外務省大臣官房外務参事官:茂田宏

○志賀(一)委員
私は、日本社会党・護憲共同を代表しまして、当委員会に付託されました議案のうち、在外公館、特にビルマ大使館の名称変更関係等について、まずお伺いをいたしたいと思います。

質問の第一は、国名、首都名はいかなる理由によって変更されるのか。

二つ目は、ミャンマーという名前に変わられた国の政治経済体制の状況はどうなっておるのか。概況等についてまずお伺いをいたしたいと思います。

○佐藤(嘉)政府委員 お答え申し上げます。
まず、前半の御質問について私から御答弁申し上げたいと思いますが、いわゆる国名の変更ということは、その国の状況によって起こるわけでございますけれども、法律改正を要する理由につきましては、国名が変わるたびごとに法律改正をお願いするということは若干時間的な要素もございます。

そのことだけのために御審議をお願いするということは、時間的な要素からいいましてもなかなか不都合かと思いまして、私ども、年度の間で国名が変史される場合には実質的に国名の変更を各方面に通知はいたしますけれども、法律の改正につきましては、年度の冒頭に当たりまして本日御審議いただいているような背景のもとでお願いをいたすということでございます。

なお、ミャンマーの状況につきましてはアジア局長から御答弁があると思います。

○谷野政府委員
ミャンマーの状況を御説明いたします前に、ただいまの国名の変更の問題について若干御説明いたしたいと思います。

先生御案内のように、ビルマ政府と呼んでいたわけでございますけれども、昨年の六月十八日付をもちまして、英語の表示の正式の国名をそれまでユニオン・オブ・バーマ、日本語でビルマ連邦と言っておりましたが、それをユニオン・オブ・ミャンマー、日本語でミャンマー連邦、そのように変更するということを先方の政府が決定いたしました。

いかなる理由によるものかというお尋ねであったかと思いますけれども、ミャンマー政府は次の点を挙げております。

すなわち、先生も御案内のように、この国はビルマ族を初めといたしましていろいろな民族から成っております複合国家でございまして、そういう状況のもとでバーマあるいはビルマというふうに呼びならわしますと何かビルマ族のみを指すというふうに誤解されやすいということのようでございまして、そのような誤解を避けるために、国内のいわばいろいろな民族すべてを包含する概念として既に古くから確立しておりますミャンマーをもって正式の国名としたというのが当時の政府の説明でございました。

その背景には、英語の表現を一掃することによりまして民族の意識を高揚するというような思惑もあったやに聞いております。

それから、ミャンマーの政治経済情勢についてお尋ねがございましたけれども、これも先生御案内のように、一昨年九月に国軍が全土を掌握する形で今の政権ができました。

その後、選挙に向けて着々と準備が進んでおりまして、本年の五月二十七日に一応総選挙が予定されておるわけでございまして、ただいま九十三に及ぶ政党が候補者を出しておりまして、既に選挙運動が開始されております。

現在はそういう状況でございまして、ただ、民政移管に至る前でございますので、国内の状況は、例えば夜間外出が禁止されております等、若干の正常さを欠いておる状況でございます。

それから経済的には、これも御案内のように、新しい政府は外資法の制定とか輸出入の業務の自由化等、いわば開放政策を推進してきておるわけでございます。

しかしながら、残念なことに、そのような努力にもかかわりませず経済的な困難は依然として深刻でございまして、外貨準備あるいは経済成長率、いずれも大変低レベルにございまして、こういった状況が根本的に改善されるにはまだ若干の時間を要すると思います。

以上でございます

○志賀(一)委員
次に、ミャンマーと我が国の関係というのは非常に古いものがあろうと思います。

特に、仏教国として長い長い関係があったわけでありますが、今、我が国がミャンマーに対して経済援助をなさっておる。

特にお話がございましたように、一昨年に軍事政権ができて、今もなお支配下にある、そういう中で一体どのような経済援助をされておるのか。

今日までの経過、そしてまた、軍事政権というものが支配しているそういう国に対していかなる根拠あるいは理念で援助されているのか、その点についてもあわせてお聞きしたいと思います。

○茂田政府委員 お答えいたします。
一昨年、ミャンマー国内におきまして武力衝突の発生等、政情の混乱が発生いたしまして、しかもこれが長期化したということがございました。この状況にかんがみまして、日本の対ミャンマー経済協力援助の実施は事実上停止を余儀なくされたという状況がございました。

ただ、その後、軍事クーデターを挟みまして、昨年の二月に至りまして新政権を我が国が承認するということがございまして、その結果としまして日本とミャンマーの政府間の関係が正常に復したということがございました。

また、この間、ミャンマー国内での状況、治安の回復等も行われまして、だんだん援助を行う客観的状況が整ってきたということで、現在我々は、従来停止を余儀なくされていた実施中の案件、継続案件でございますけれども、これを問題のないところから再開してきているというのが現状でございます。継続案件の中には円借款の案件、技術協力の案件がございます。

ただ、ビルマに対する新規援助の約束または供与に関しましては、緊急的、人道的性格の援助は別としまして、いましばらくビルマ側の情勢を見守っていきたいというふうに考えております。

○志賀(一)委員

私のお聞きしますところでは、このODA関係を、今後、閣議決定のように第四次計画では倍増しようというような方向もあるわけでありますから、予算も多くなる、また対象国もたんだんとふえていく、こういう状態になれば、そういう中で当然ODAに対する――従来は私ども、世界での貧しい国々、そして困っている人たち、弱者に対する援助だというふうに理解しておったわけであります。

しかし、対象国が多くなればいろいろその国の実情もかなり変わってくる。それに対応した援助の仕方というものが当然出てくるわけであります。先ほどミャンマーについては国情の変化等に応じての援助を現実にやっておるようにお聞きしましたし、また、今度はポーランド、ハンガリーについても、私どもの受け取りでは従来と若干異なる視点からの援助たなと受け取らざるを得ない。

そんなふうに考えますと、今日、ODA等の予算については確たる法律的な根拠またそれを貫く理念というものが明確になっておらない。

そういうふうに受けとめますと、やはりきちっとした理念を持ち、そして法的な根拠、裏づけのある予算的な対応をする、これが、この予算の今後の額や対象国の増加等を考えれば当然のことではなかろうかと私は思うわけであります。

また定かに教えていただいていませんが、かつて我が社会党も川崎先生を代表とする基本法についての御提案をなさっていたという経緯などもお聞きしますと、そろそろこの基本法なるものをつくるべき時期に来ておるのではなかろうか、こういうふうに思いますので、今後検討するお考えがあるかどうか、お聞きをしておきたいと思います。

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第118回 - 衆議院 - 本会議 - 9号 平成02年03月28日

○議長(櫻内義雄君) 日程第四、在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律案を議題といたします。

委員長の報告を求めます。内閣委員長岸田文武君。
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 在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律案及び同報告書

〔本号(二)に掲載〕
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〔岸田文武君 登壇〕

○岸田文武君 ただいま議題となりました在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律案につきまして、内閣委員会における審査の経過及び結果を御報告申し上げます。

本案は、 第一に、国名の変更に伴い、「在ビルマ日本国大使館」の名称を「在ミャンマー日本国大使館」に改めること、

第二に、在ナミビア日本国大使館及び在エディンバラ日本国総領事館を設置するとともに、これらの在外公館に勤務する在外職員の在勤基本手当の基準額を定めること、 第三に、既設の在外公館に勤務する在外職員の在勤基本手当の基準額の改定を行うことを内容とするものであります。

本案は、三月十三日本委員会に付託され、昨二十七日中山外務大臣から提案理由の説明を聴取し、質疑を行った後、直ちに採決いたしましたところ、全会一致をもって可決すべきものと決した次第であります。

なお、本案に対し附帯決議が付されました。
以上、御報告申し上げます。(拍手)
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「ビルマ」へこだわり 「ミャンマー」国粋色嫌われ
夕刊 らうんじ 『朝日新聞』 【大阪】1990年07月06日

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ソウ・マウン軍事政権が「ビルマ連邦」の国名を「ミャンマー連邦」に改称して、6月18日で1年がたった。

しかし、反政府派の学生や知識人らは、「全ビルマ学生自治会連盟」などと名乗るなど、いまだに「ビルマ」を使っている。欧米の通信社、バンコクの英字紙も引き続き、「ビルマ」を使っている。

昔の「ビルマ戦線」のことや「ビルマの竪琴」の話を書く際に「ミャンマー」を使っては、当時の関係者にはピンと来まい。いつも表記に悩んでいる。

ビルマ族の間では、自分たちの国のことを「ミャンマー」もしくは「バマー」と呼んできたが、新たな国名に知識人らがすんなりなじめない理由のひとつは、軍事政権の改名が国粋化政策に基づく、ととらえているからだ。

反政府派によれば、軍事政権はアウン・サン・スー・チー女史の夫が英国人であることや、英国、米国が彼女の率いる全国民主連盟(NLD)を支援していることに不快感を抱き、ことさら「外国の干渉」「植民地文化」の排除を力説し、国粋化を推進した。

軍事政権は投票の直前「祖国が再び外国の植民地になる道を選ぶのかどうか国民はよく考えよ」とまで有権者に訴えた。反米英、反NLD、官製国粋運動が互いに関連していることを多くの知識人が指摘する。

日本語表記の「ビルマ」の場合、「英語のBURMA由来ではなく、ポルトガル語由来だ。約400年の歴史がある言葉を一軍事政権による変更、それもまだ憲法にも定められていない段階で変える必要はない」(大野徹・大阪外大教授=ビルマ語)という意見も根強い。

選挙で大勝したNLDが新憲法で国名をどうするかが注目されている。
(バンコク=宇佐波特派員)
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「ビルマ」へのこだわり(特派員メモ・バンコク)
『朝日新聞』【東京】夕刊 らうんじ 1990年07月05日

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「ビルマ」へのこだわり(特派員メモ・バンコク)

ソウ・マウン軍事政権が「ビルマ連邦」の国名を「ミャンマー連邦」に改称して、6月18日で1年がたった。

しかし、反政府派の学生や知識人らは、「全ビルマ学生自治会連盟」などと名乗るなど、いまだに「ビルマ」を使っている。欧米の通信社、バンコクの英字紙も引き続き、「ビルマ」を使っている。東京外大、大阪外大でも「ビルマ語」の名称を使っている。

昔の「ビルマ戦線」のことや「ビルマの竪琴」の話を書く際に「ミャンマー」を使っては、当時の関係者にはピンとこまい。いつも表記に悩んでいる。

ビルマ族の間では、自分たちの国のことを「ミャンマー」もしくは「バマー」と呼んできたが、新たな国名に知識人らがすんなりなじめない理由のひとつは、軍事政権の改名が国粋化政策に基づく、ととらえているからだ。

反政府派によれば、軍事政権はアウン・サン・スー・チー女史の夫が英国人であることや、英国、米国が彼女の率いる全国民主連盟(NLD)を支援していることに不快感を抱き、ことさら「外国の干渉」「植民地文化」の排除を力説し、国粋化を推進した。現在、鉄道の英語の駅名表示ですら消され、外国人旅行者には不便でしようがない。

軍事政権は投票の直前「祖国が再び外国の植民地になる道を選ぶのかどうか国民はよく考えよ」とまで有権者に訴えた。

反米英、反NLD、官製国粋運動が互いに関連していることを多くの知識人が指摘する。

日本語表記の「ビルマ」の場合、「英語のBURMA由来ではなく、ポルトガル語由来だ。約400年の歴史がある言葉を一軍事政権による変更、それもまだ憲法にも定められていない段階で変える必要はない」(大野徹・大阪外大教授=ビルマ語)という意見も根強い。

選挙で大勝したNLDが新憲法で国名をどうするかが注目されている。(宇佐波)
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外国の地名表記見直し 8月から一部変更 現地の呼び方・発音を尊重
1989年07月29日 朝刊 解説(『朝日新聞』)

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外国の地名表記見直し 8月から一部変更 現地の呼び方・発音を尊重

日本新聞協会加盟の新聞・通信社と放送局は、8月1日から外国地名の表記法を一部改定し、朝日新聞社もこれに同調することになりました。今回の表記改定の主なねらいは

(1)民族主義の台頭や国内事情を考え、現地の呼び方を尊重する

(2)現地の発音に近い表記をとる

(3)慣用化した書き方は変えない−−の3点です。

 (用語幹事・土肥直道)

「ビルマ」が「ミャンマー」と変わるのも、同じような理由です。現地から英語式の呼 び方をやめるよう求めてきました。外務省が認めたので「ミャンマー(旧ビルマ)」と首都の「ヤンゴン(旧ラングーン)」は7月10日から改定しました。

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ビルマからミャンマーへ ソン・マウン政権、宗主国の「影」断つ
1989年07月10日 朝刊東京

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ビルマからミャンマーへ ソン・マウン政権、宗主国の「影」断つ

【バンコク9日=宇佐波特派員】
ビルマのソウ・マウン政権が発表した新国名の「ミャンマー」は10日から日本の外務省が正式国名として採用するのを始め、国連でも名称を変更するなど、国際的に認知の輪を広げている。

この新国名、当のビルマ人らにとっては、古くからなじみ深い呼称だ。国際的に定着してきた国名をあえて変えた背景には、植民地時代の宗主国の影響を断ち切り、本来の名前を対外的にも認めさせたいという自立意識が働いている。

「ミャンマー」は、以前からビルマ人が使っていた呼称を英語表記でもそのまま踏襲したもの。改名は、国名だけにとどまらず、首都を含む全国の地名、川の呼称にまで及んでいる。

ラングーンの知識人らによると、ネ・ウィン元社会主義計画党議長が10年前にもやりかけて中断したのがやっと実現したのだ、という。

また、ラングーンの外交筋は「少数民族との融和をめざし、ビルマのナショナリズム高揚を狙ったもの」とみる。
これまでの国名のビルマは多数派民族のビルマ族にちなんだような印象が強く、「ミャンマー」だとビルマ国土に住むすべての民族を含むから、とみられている。

「ミャンマー」は外国人にはなじみがないが、ビルマ人は古くからビルマのことを「ミャンマー」といったり、「バマー」と呼んできた。

言語学者は、「ミャンマー」も「バマー」も同一語源から来ており、MとBがわずかな発音の違いで転化したもの、とみている。

日本留学経験のあるラングーンのAP通信記者、セイン・ウィン氏は「日本人はビルマの呼称で慣れているから、外交文書などの英語表記を除き、日本語でビルマ国や国民のことを表記する場合には従来のビルマという表記を使っても構わないと思う。

私が英文送稿の場合は、ミャンマー(ビルマ)、ヤンゴン(ラングーン)と当面カッコをつけます」と話している。

<おことわり> 朝日新聞は10日付朝刊から、ビルマの国名表記を「ミャンマー」に、首都ラングーンの表記を「ヤンゴン」に改めます。

ビルマ政府が表記を変更したのに伴って、外務省は10日からこれらの呼称変更を実施することを決めました。

今回の措置はこれを受けたものです。当分の間、ミャンマー(ビルマ)、ヤンゴン(ラングーン)と、旧称を添えます。

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1989年07月10日 朝刊
 「ビルマ」の国名表記、「ミャンマー」に<おことわり>

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「ビルマ」の国名表記、「ミャンマー」に<おことわり>

朝日新聞は10日付朝刊から、ビルマの国名表記を「ミャンマー」に、首都ラングーンの表記を「ヤンゴン」に改めます。

ビルマ政府が表記を変更したのに伴って、外務省は10日からこれらの呼称変更を実施することを決めました。今回の措置はこれを受けたものです。

当分の間、ミャンマー(ビルマ)、ヤンゴン(ラングーン)と、旧称を添えます。

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「ビルマ」から「ミャンマー」へ国名表記 10日から
1989年07月08日 朝刊 東京 299

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「ビルマ」から「ミャンマー」へ国名表記 10日から

 外務省は7日、ビルマの日本語による国名表記を10日付で「ミャンマー」に、首都ラングーンを「ヤンゴン」に、それぞれ改めることを発表した。

ビルマ政府が6月18日付で英語の表記を自国語の発音に沿って変更したのを受けた措置。

内閣法制局との間で意見調整をすませており、新呼称の使用を関係省庁や在外公館にも通知する。在外公館の名称、位置などに関する法律で定められた在ビルマ日本大使館の
名称は、次の国会で法改正したのち改められる。

その他の公式文書は10日付から新呼称を用いていく。

ただ、外務省はビルマという呼び方を長年使ってきたことから、当面は「ミャンマー(旧称ビルマ)」と旧名も適宜併記することにしている。

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1989年07月01日 朝刊
ビルマの日本語呼称「ミャンマー」に

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ビルマの日本語呼称「ミャンマー」に

外務省は30日までに、ビルマの日本語呼称を「ミャンマー」に変更する方針を決めた。ビルマ政府から20日、英語の国名表記を自国語の発音に忠実な「ミャンマー」に6月18日付で変更した、との通報を受けたのに対応する措置。

旅券法などの「ビルマ」の表記変更について内閣法制局との調整がすみ次第、在外公館や関係省庁などに通知したうえ、新呼称を用いることにしており、早ければ7月上旬からになるという。

ミャンマ連邦に国名を正式変更 ビルマ
1989年06月19日 夕刊 東京 152


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「ミャンマー」か「ビルマ」か――ミャンマーの行方
1995/07/22, 毎日新聞 朝刊


解放されたアウン・サン・スー・チーさんは英語の記者会見では「ミャンマー」と言わずに英語の「バーマー」で通している。「外国人がどちらを使っても構わないが、外国人が発音するミャンマーは本来の音と違うから」というのが表向きの理由だ。だが反軍政の民主化運動家はみなバーマーを使う。

1989年、軍事政権は突然国名の英語呼称を「バーマー」から「ミャンマー」に変えると宣言した。だが民主化勢力は軍事政権の決定に従うのを嫌い「ミャンマー」という英語名はいまだに使わない。

日本語の「ビルマ」という表現は英語の表記をオランダ語読みしたのが起源とといわれるが、英語の「バーマー」の語源は「ミャンマー」の古い時代の発音である「ムランマー」で、元をただせばみな同じだ。ミャンマーでは文語で「ミャンマー」、口語ではその変化形の「バマー」だ。
ある大学教授は「柔らかく発音すると書いた通りにミャンマーとなるが、強く発音するとビルマになる。政治的意味はない」と言う。ある大学生は「軍事政権が名称を押し付けるのもおかしいが、英語の表記にこだわるのも植民地主義者みたい」と、民主化運動グループのこだわりには冷淡だ。(広瀬金四郎)
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ミャンマ連邦に国名を正式変更 ビルマ

【バンコク19日=宇佐波特派員】ビルマの国家法秩序回復評議会は18日夜、ビルマの国名をビルマ連邦から「ミャンマ連邦」に変えた、と発表した。

従来の地名が、英国人の発音に基づいてつけられていたのを一挙に改めたものだという。首都ラングーンも「ヤンゴン」と改めるほか、ペグーはパゴ、カレンはカインなどになる。

================================================== 資料収集に関して、<burmainfo> の箱田さん、記者のTさん
の協力を得ました。

 

 




ビルマからミャンマーへ
ビルマからミャンマーへと呼び方が変わったのは一九八九年のこと。変わった当初、日本のメディアはミャンマー(旧ビルマ)と表記していたが、今は括弧がとれ、すっかりミャンマーになりおおせた。しかし、例えばアウンサンスーチーは英語のメディアの取材に対して、一貫して Myanmar ではなく Burma を使い続けている。軍事政権は武力によって政権を奪取した。国民の信任を受けていない。自ら暫定的な政権であるとその役割を規定している。その軍事政権が、国民の意思を問うこともなく、勝手に国称を変更するのは許せないとする民主化勢力の主張がそこにある。そうした主張をうえで判断したのだろう、通信社や新聞社などの世界の英語メディアの中には、Burma を使い続けているところも少なくない。

Burma (ビルマ)と Myanmar (ミャンマー)はもともと同じ単語から派生している。そもそも、英語呼称を BURMA としていた時代でも、自国語呼称はミャンマーとしていた。英語で JAPAN 日本語で日本というようなものでたいした違いはないとの意見もある。表現のうえでは確かに大きな違いはない。こだわるほどのことではないと考えるひともいる。それでもこだわる人もいる。政府や新聞社・通信社・放送局の表記が一斉に足並みをそろえて変わった日本のなかでもビルマを使い続ける人たちは少なくない。

表現のうえでどうのこうのではなく誰が変えたのかを問題にしなければならない。国民に銃を向けた軍が変えたのである。その軍は政権を手放さない。一九九〇年五月二七日に行われた一院政の議会選挙では、議員総数の八〇パーセント以上を国民民主連盟(NLD)が獲得したにもかかわらず、政権委譲は一三年たった現在に至るまで行われていない。国会すら一度も招集されていない。明らかに軍は選挙結果に示された国民の総意に背を向けている。しかし、軍事政権のもとでは、言論・報道・政治活動の自由は極度に制限されており、国民は抗議の行動どころか不満の声をあげることすらできない。

NLDをはじめとする民主化勢力の活動を厳しく規制している軍事政権であるが、国際的なメンツもあるのだろう、時に手綱をゆるめる。例えば、アウンサンスーチーたち一部の指導者が外国メディアとの接触を許されることがある。接触の手段は主に電話インタビューである。

許されると書いたのは、電話による国外からの接触が許可制だという意味ではない。電話はボタンをプッシュすればかかる。しかし、往々にして、指導者たちの使う電話は肝心な時に、妨害音が入ったり、ラインそのものが一時的に切断されたりする。うまくつながって会話が始まれば、それはアウンサンスーチーたちにとって得がたい機会となる。一九九〇年の選挙で国民から託されてた責任を果たそうとする民主化勢力のリーダーたちは、外国メディアに向かって国民の声を代弁しようと息せき切って語りかける。そんな時、英語で Burma を使うことは、彼ら、彼女らが置かれている立場をわかりやすく伝えることになる。

ビルマの国民すべてが Burma と Myanmar の使い分けを気にしているわけではない。英語など生涯に一度もしゃべらないビルマ国民だってたくさんいるだろう。民主化陣営の指導者たちが BURMA を使うのは、そのこと自体をいいつのるではなく、平気で国の呼称を変えてしまったことでもわかるように、国民の信任を受けていない政権が、今も私たちを支配しているのですよ、外国の人たちにもそのことをよく認識していただきたいとのメッセージとして受け取るのが妥当であろう。

(田辺 寿夫 / 根本 敬 『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』 角川 ONE テーマ21、角川書店、2003年)




This Briefing uses the official English name for the country, as applied by the UN, most countries outside the U.S. and Europe, and the national government - that is, "Burma" for the period before 1989 and "Myanmar" after 1989. The same criteria are used for other place names such as Rangoon(Yangon). Thi should not be perceived as a political statement or a judegement on the right of the military government to change the names. In Burma/Myanmar, "Bamah" and "Myanmar" have both been used for centuries, being respectively the colloquial and the more formalnames for the country itn the national language.

MYANMAR:THE FUTURE OF THE ARMED FORCES, ICG (International Crisis Group) Asia Briefing,Bangkok/Brussels, 27 September 2002




Burman" refers to the ethnic group and "Burmese" refers to all citizens of Myanmar. "Burmese" is also the name of the language spoken by Burmans.
"Myanmar:THE MILITARY REGIM'S VIEW OF THE WORLD", ICG Asia Report No28 Bangkok/Brussels", 7 December 2001




「ビルマ V S ミャンマー」
1889年6月18日、 ビルマ軍事政権は国民を無視して一方的に国名を the Union of Burma / ビルマ連邦国から the Union of Myanmar / ミャンマー連邦へと変えてしまいました。 軍政はなぜビルマからミャンマーへと国名を変えたのか? この問いに対して軍政は二つの理由を挙げました。 ひとつは、 イギリスの植民地支配から完全に解放されたからというもの。 もうひとつは、 イギリスの分割統治でバラバラになった国民をまとめるため、 国民統一と連邦制の精神を表すには全ての民族を指すミャンマーがふさわしいからというものでした。
多民族国家のビルマには135の少数民族が存在し、 地理的に大きく8つの民族に分けられます(内訳は、カチン族:12民族、カヤー族:9民族、カレン族:11民族、チン族:53民族、ビルマ族:9民族、モン族:1民族、ラカイン族:7民族、シャン族:33民族)。中でもビルマ族の人口が一番多く、全体の約7割を占めます。
軍政は、19世紀初頭からビルマを支配してきたイギリス人が付けた Burma は一番人口の多いビルマ族を基本としており連邦国家の精神に反している、 という見解を示しています。
さて、 本当にミャンマーは全ての民族を指し、 連邦制の精神を表しているのでしょうか。 また、 現在この国に対して軍政が変更した通りミャンマーと呼ぶ人と政治的信条からビルマと呼ぶ人がいますが、 そこにはどのような違いがあるのでしょうか。
歴史を調べてみると、 軍政が現在国名として使用しているミャンマーは、 随分昔から使われていました。バガンにあるバゴダ(仏塔)にはミャンマーという文字が国名として記された1190年の石碑が残っており、 バガン王朝時代(1044〜1287)にはチャンジッター王の宮殿がミャンマーと呼ばれていたことが分かっています。
また、 ビルマを実際にビルマ語で発音するとバマーとなりますが、 これは18〜19世紀のコウンバウン王朝時代に建物や加工物に使われていたとの記録が残っています。
ちなみに、 日本語としてのビルマは意外にもポルトガルから入ってきた語だとのこと。ビルマが西洋諸国との交流を始めたのは16世紀に入ってからでしたが、 最初にビルマの一部を植民地下に置いたポルトガル人の耳には現地人の発音が Biruma(h)/ビルマと聞こえた為、 それがヨーロッパ全域で使われるようになり、日本にもそれが伝わったようです。
一方、 英語の Burma が使われるようになったのは19世紀に入ってからでした。 ビルマ西部にあるアラカン州(現在のラカイン州)のアラカン王がコウンバウン王朝(1752〜1885)のバージードー王と戦った末、 当時すでにイギリスの支配下に置かれていたインド(現在はバングラデシュ)へ逃げ込んだのをきっかけに、 ビルマとイギリスは衝突を繰り返すことになりました。 初めてイギリスと直接戦った1824年の後、 コウンバウン王軍が敗退した1826年にはアラカン州とビルマ南部のテナセリン地方が、 1852年の2度目の戦争で下ビルマが、そして1885年の3度目の戦争でビルマ全土がイギリスの支配下に置かれ、 これら3度の戦争の間にイギリス人がバマーをビルマ族であると理解したのが最初でした。 イギリス人はビルマ占領期に国家と国民の関係に西洋の概念を取り入れ、 バマーの住む国家を Burma、国民を Burmese、 ビルマ族を Burman と呼んだのです。 しかし、 19世紀にイギリスが作った地図には、 現在の上ビルマをアヴァ、 下ビルマをペグーとだけ記されており、Burma とは記されていませんでした。
また、 戦前にビルマの独立を求める活動組織を設立したバ・タウン氏は、 組織に「我々のバマー(ビルマ)」と名付け、 国民はバマー、ビルマ族はミャンマーであるというイギリスの概念とは異なる考え方を持っていました。 尚、 バ・タウン氏の考え方は1948年の独立以降ほとんど使われていません。
ビルマ語辞典を調べてみると、 ミャンマーは「大昔からミャンマーに住んでいた少数民族」、 ビルマは「ミャンマーの口語」であると書かれています。 つまり、 ミャンマーとビルマの違いは文語と口語の違いだけで、 いずれの語も意味は同じなのです。
このように、 歴史、 辞書、 イギリスの概念、 バ・タウン氏の考え方、 いずれの観点からも、 軍政の説明が矛盾していることが分かります。
アウン・サン・スー・チーさんもこの件について次のように話しています。 「国民の同意無しに国名を変更するようなことが許されてはなりません。 彼らは、ビルマがビルマ族だけを指しているのに対してミャンマーは全ての民族を指している、 と言っていますが、 これは正しくありません。 ミャンマーはビルマの文語であり、 よってビルマ族だけを指しているのです。 もちろん私はビルマの方が望ましいと思っています」。
アウン・サン将軍が各少数民族と憲法制定のために行ったピンロン会議(1947年2月12日)では国名の問題が提起されることはありませんでした。 それなのになぜ今になって問題視されているのか。 民主化勢力は、 軍政が国名を変えたのは1988年のクーデターを正当化する為だと考えています。
スー・チーさん同様、 世界各国の民主化活動者たちは政治的信条から今もビルマを使っていますが、 ミャンマーという語も昔から使われており、 この語自体を嫌っているわけではありません。 変更までの経緯に国民の意思が反映されなかったということが問題視されているのです。 ただし、海外(特に英語圏)に移住した少数民族の一部からはイギリスの概念である Burma もビルマ族だけを指しているとの批判があることも確かです。
ビルマはこのほかに国旗の問題も抱えています。 1948年の憲法によって作られた国旗は、 勇気をあらわす赤色の背景の左上に平和をあらわす青色の長方形、 その真ん中に大きな星がひとつ、 その周りに5つの小さな星描かれており、 民主化勢力は今もこの国旗を使っています。 一方、 現在軍政が使用している国旗は1974年の憲法によって作られたもので、 同じく赤色の背景の左上に青色の長方形、 その中には労働者をあらわす歯車と農民をあらわす稲、 その周りある14個の星はビルマ族以外の7つの少数民族とビルマ族が住んでいる7つの管区をあらわしています。 以前の国旗に対して真ん中の大きな星がビルマ族だけを指しているから駄目だと批判する人、 現在の国旗に対してビルマ族が住む7つの管区はひとつの州としてひとつの星にまとめるべきであり、 本来なら8つの星でなくてはならないと批判する人がいます。
 
NLD(国民民主連盟)の英語 イギリス(アメリカ)英語
SPCD(国家平和開発 評議会)の英語
日本語
政治的信条を抜いたルマ語の日常表現
文語 / 口語
文語 / 口語
主に民主化勢力
その他
国名
Burma
Myanmar
ビルマ
ミャンマー
ミャンマー
バマー
言語
Burmese
Myanmar
ビルマ語
ミャンマー語
ビルマ語
ミャンマー
バマー
国籍
Burmese
(Burman)
Myanmar
ビルマ人
ミャンマー人
ミャンマー
バマー
少数民族
Burman
(Burmese)
Myanmar
ビルマ族
ビルマ族
ミャンマールミョー
バマールミョー

ビルマ日本事務所のミン・ニョウ事務局長はこれらの問題に関して次のように述べています。 「国名や国旗は民主国家になった時に全ての少数民族による話し合いの上で決めなければなりません。 ビルマという国名に戻すのか、 新しい国名を決めるのか、 それは国民が決めるべき問題です。 この問題はイギリスのせいではなく、 ビルマの憲法が連邦制に基づいたものだったにも関わらず実際は連邦国家にならなかったことに起因します。 国名はビルマの未来の連邦制にとって重要なポイントですが、 連邦国家の問題と摩り替えては本当の問題解決にはなりません。 連邦制が実現すれば国名の問題は解消されることでしょう。」
(「ビルマ VS ミャンマー」『ビルマジャーナル』、東京、2000年4月)




「『ビルマ』という名称について」
「現在、 ビルマの英語呼称としては、 従来の Burma ではなく Myanmar が使われることが多くなっています。 日本でも、 この流れに沿って「ビルマ」ではなく「ミャンマー」が使われるようになってきました。 ビルマ語自体には、 「ビルマ」に相当する呼称として(A)[原文・ビルマフォント]と(B)[原文・ビルマフォント]の二つがあります。
ところで、 ビルマ政府が英語呼称を Myanmar に変えた理由としては次のような点があげられます。 一つは、(A)を語源とすると思われる Burma がビルマ語の(A)と(B)のどちらの発音ともかけ離れているということです。 もうひとつは、(A)がビルマ民族だけを指すのに対し、 (B)は特定の民族を指す呼称ではないので、 後者を英語にした Myanmar のほうが多民族国家ビルマの名称としてふさわしいということです。
確かに、 現地音を尊重するという意味では Burma をつかうより Myanmarを使うほうがはるかに良いかもしれません。 英語の Burma がビルマ語の(A)とも(B)とも発音が異なるのは確かだからです。
しかし、 Myanmar が多民族国家ビルマの名称としてふさわしいとする説明には問題があります。 ビルマ語の(A)と(B)には、 (A)が口語的で(B)が文語的というくらいの違いしかなく、 本来どちらも狭義のビルマ民族を指す呼称だからです。 ビルマには、 カチン人、 カヤー人、 カレン人、 チン人、 モン人、 ラカイン人(アラカン人)、 シャン人の七大少数民族をはじめとして、 ビルマ人とは言語も文化も異にする民族がたくさん住んでいます。 このような少数民族の立場からすれば、Myanmar が多民族国家の名称としてふさわしいという説明は、 到底受け入れがたいものです。 狭義のビルマ人は連邦を構成する諸民族の中の一民族にすぎないからです。
本書ではこの点を考慮して、 「ミャンマー」ではなく「ビルマ」という従来の日本語を用いることにしました。 (ビルマ国内の地名については、 現地音を尊重し、 従来の英語式ではなくビルマ語の発音に近い表記をしてあります。)」
(加藤昌彦『エクスプレスビルマ語』、白水社、1998年)



「軍事政権に追随した『ミャンマー』表記」

「ジャーナリズムの本来の氏名のひとつは、 権力の監視と多様な意見の交換につとめることにあるはずである。 だが、 ほとんどの日本のメディアはこれまでみてきたように、 基本的な軸足を軍事政権や日本政府、 ビジネス側の論理にすえてビルマを報道しているのが実態である。 このような基本姿勢を端的に反映するもうひとつの例が、 ビルマの国名表記である。

軍事政権は1989年に国名の英語表記を突然「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した。 「ビルマ」は、 植民地時代のイメージを残しているうえ、 多民族国家において多数派のビルマ族中心の印象を与えるので好ましくない、との理由によるものだった。 しかし民主化勢力はこれに反対し、 いまだにビルマを使用している。民主化勢力によれば、 国民の意思を踏みにじって権力の座に居すわりつづける軍事政権に一国の呼称を勝手に変える合法的な資格はないとないとされる。 また、 ふたつのことば文語と口語の違いにすぎず、 「ミャンマー」にしたところで、 ”ビルマ族”という基本的な意味は変わらないため、 軍事政権の説明にはあまり説得力はない。 表記変更のほんとうのりゆうははっきりしないが、 この変更の裏にはかなり政治的な意図が働いていると考えられる。 日本のメディアも当然、 それぞれのビルマに対する現状認識をふまえて、 国名表記をどうするべきかを考えるべきであった。

ところが、 日本のメディアのほとんどが、 ミャンマーを採用してしまった(テレビ朝日の『ニュースステーション』だけが「ビルマ」でとおし、 朝日新聞は「ミャンマー(ビルマ)」としている)。 きっかけは昭和天皇の葬儀だった。 軍事政権の首脳クラスが出席することになり、 外務省の意向を受けた日本新聞協会が「ミャンマー」表記を採用、 各社ともそれに右ならえをしてしまったのだ。 NHKにいたっては、 アウンサンスーチーさんへのインタビューで彼女が「ビルマ」と発言しているにもかかわらず、 日本語訳を「ミャンマー」と変えてしまうほどだ。

日本のメディアは、 国名表記においても、 ジャーナリズムとしての自主的な判断を放棄し、 軍事世間と日本政府に身をまかせ、 軍事政権を受け入れない多くのビルマ市民の声を排除してしまったのである。

私は、 1995年の軟禁解除後のアウンサンスーチーさんへのインタビューへのなかで、 彼女が次の点を強調したのを印象ぶかく記憶している。 「日本人は、戦後の繁栄と平和がどうして達成されたか忘れないで欲しい。 それは、 軍国主義から解放されて民主主義を手に入れたおかげではないでしょうか」

だが彼女の期待にもかかわらず、 日本のマスメディアはそれを忘れてしまったようだ。 もし日本が民主主義の原則を尊重する社会で、 新聞やテレビにもそれが背骨としてつらぬかれているならば、 ビルマ報道にあたっても、 その社会に暮らす人々の様々な姿や声にできるだけ近づき、 彼らの視点から軍事政権や日本政府の主張の真偽をただしてみる努力をおしまないであろう。 そうすれば、 ミャンマーという一方的な国名表記のおかしさにも、 「順調な経済発展」のでたらめにもすぐに気づくはずである。」
(永井浩『アジアはどう報道されてきたか』、pp.124-126、筑摩書房、1998年)



「知られざる『東南アジアのユーゴスラビア』」

その前に私がなぜ、 「ミャンマー」ではなく「ビルマ」と言い、 首都を「ヤンゴン」でなく「ラングーン」と言うかという問題がある。 日本では一般に、 現在のビルマ軍事政権(1997年11月15日に国家平和開発評議会と改称、 略称SPDC)を認めていない人は「ビルマ」と呼び、建前でも軍事政権を認めている人、 もしくは何も考えていない人は「ミャンマー」と呼ぶものと考えていい。

1988年のクーデターで政権を握り、 総選挙で大敗しながらも武力でその地位を明け渡さない軍事政権に権力の正当性はなく、 したがって、 彼らが勝手に改称した新しい対外向けの国名および地名にも正当性がないと反軍事政権=民主化勢力は考える。 逆に言えば、 ビルマを「ミャンマー」と呼ぶことは軍事政権の正当性を認めることになる。 つまり、 どちらの呼称を使うかが、 親軍事政権か反軍事政権かの踏み絵になるわけだ。

私は反軍事政権の立場なので「ビルマ」「ラングーン」を使う、 と言いたいところだが、 実はちょっとちがう。そういう気持ちもあるが、 それより私が不審に思うののは、 どうして外国の対外向け名称が変わると日本語も変えなければいけないかということだ。 われわれの国は「ニホン」もしくは「ニッポン」だが、 どこの国もそうは呼ばない。 英語は「ジャパン」、 スペイン語は「ハポン」、 中国語は「リーベン」と、 みな好き勝手に呼びならわしている。 日本政府もこれにクレームをつけたことはない。 よく引き合いに出される例だが、 日本人も英国のことを「大ブリテンならびに北アイルランド連合王国」とは呼ばずに「イギリス」と呼び、外務省の文書のみ「連合王国」と書くらしいのだが、 それがイギリス政府の正当性を疑う者の踏み絵になったなどという話は寡聞にして知らない。

さらに、 軍事政権を認知している各国も、 関心があるのは経済面ばかりで改称にはいたって無関心である。 「建設的関与」と称して「ミャンマー」と仲良くやろうとしていながら、 ビルマとは歴史上の宿敵であり、 亡命したり難民となって逃げ出した反軍事政権のビルマ人を蔭に日向に、 かばっているという微妙な立場にあるタイにしても、 昔ながらの「パマー」で通しており、 それが両国の緊張を高めてはいない。

軍事政権の熱烈な保護者である中国も当然、 「緬甸(ミエンデイエン)」という呼称を改めていない。 欧米諸国も私の知る限り、 どこも普通には Burma かそれに近い以前からの呼び名を使っている。 どうして日本人だけが慌てて軍事政権の改称に追随する必要があるのか、 よくわからない。 英語で公式文書のやりとりをするのでないかぎり、 日本語でどう呼ぼうが自由であろう。 それが物書きの端くれとしての私の言い分である。
しかも、 この改称はあくまでも対外向けである。 当のビルマ語では、 1948年の独立時から、 正式国名は「ミャンマー」であり、 首都は「ヤンゴン」であった。 「何をいまさら」と言いたくなる。

もう一つ、 興味深い指摘がある。 軍事政権は「『バマー(ビルマ)』はビルマ民族を指す言葉であり、 多民族国家としては他の少数民族を含めた広義のビルマ国民を指す『ミャンマー』の方が好ましい」ということを改称の理由としてあげている。 だが、 東京外国語大学の根本敬助教授(ビルマ現代史)によれば、 「ミャンマー」も「ビルマ」も狭義のビルマ民族を指す言葉であり、 違いは前者が文語、 後者が口語だったことでしかないと、 豊富な歴史的事例をもとにして説き起こし、 それは自らは「ビルマ」を使う根拠にしている。 一方で、 根本先生は狭義のビルマ人を他の民族と区別して「ミャンマー民族」と呼んでいる(詳しくは根本敬著『アウン・サン−封印された独立の夢』参照)が、 そこまで断定してしまっていいものかどうかは私にはわからない。

しかし、 この「ビルマ VS ミャンマー」論議は、 単に政治や言葉の問題を超え、 ビルマの抱える根本的な問題を提起している。 というのは、ビルマは独立するまでビルマではなかった。 言い換えれば、 独立して初めてビルマになったからである。 すなわちイギリス領インド帝国の東側がインドから切り離されて独立することにより、 そこに含まれる領土がビルマという国家に、 そこに住む民がビルマ国民になったのである。」
(高野秀行『ビルマ・アヘン王国潜入記』、pp.166-168、草思社、1998)




「本書は、現在の国名ミャンマーではなく、ビルマを用いている。ミャンマーとビルマは(ビルが語ではバマー)は語源的に同じとの説が有力で、前者が文語的、後者は口語的表現であって、今も文脈に応じて使い分けられている。これに対し現政権は、1989年、『ビルマ』がビルマ民族を指すだけで、多民族国家の呼称として『ミャンマー』がよりふさわしいとの理由で国名を変更した。このことから『ミャンマー』は、新たな政治的な意味が付与されたことになり、国名問題は政治的な立場の違いにかかわるものとなっている。

 しかし、本書がビルマを用いるのは次の理由からである。第1に、本書の取り扱う主題は、国家体制そのものでなく、人々とその文化である。対象とする地理的範囲は、イラワディ川やサルウィン川などのつくる平地部とそのまわりに広がる山岳部からならう。そこにはビルマ民族だけでなく、さまざまな民族が居住しており、この世界を指すには、かつてから呼び慣わされてきている『ビルマ』がよりふさわしいと考えるからである。

 第2に、学問的に見て、また慣用の上からも、ビルマをミャンマーに置き換えるのはかえって無用の混乱や誤解をまねきかねないからである。例えば、地理的−文化的地方を指すのに、上ビルマ(Upper Burma)、下ビルマ(Lower Burma)の表現がある。前者は、マンダレーを中心とするイラワディ川中流域、後者はデルタや沿海部をさす。こお表現は多くの文献に用いられてきており、それをミャンマーに置き換えるのは歴史的経緯からしても多くの混乱が生じよう。また『ミャンマー』は、もともとビルマ民族やそれにかかわる事象をより狭く指しており、現政権の国名変更は事実において無理があると編者は考えている。
(「転換期に立つビルマ」pp.9-10、『ビルマ』田村克己・根本敬編、河出書房新社、1997年)




「国名」

 「ミャンマー連邦 Union of Myanmar 。1989年に軍事政権は国名を@ビルマからミャンマーに変更した。BURMA (バーマ)という名称は、もともと15〜16世紀にこの地を訪れたポルトガル人によって呼ばれていたが、英国人に継承され、独立後も英国が使用して国際的に通用する国名として便宜上使われていたA。その間でも現地語(ビルマ語)の表記では国名を『ミャンマー』としていた。つまり国民はミャンマーという国名になんらの違和感もない。英語の JAPAN と NIPPON の例とと同じようなものと言える。なお軍事政権は国名とともに地名・都市名も英国植民地時代の英語読みから現地語読みにかえた。そして首都名のラングーンはヤンゴンと変わった。 (@ビルマという日本での呼称は江戸時代にオランダ語から入ってきたと言われる。またビルマを意味する表記法としてよく使われている緬は中国語の緬甸(めんてん)からきている。A国際社会での英語による国名採用は日本の JAPAN、ドイツの GERMAN、オランダの NETHERLAND など枚挙にいとまない。)」
(編・アジアネットワーク『ミャンマー情報事典』、p.72、ゑゐ文社、1997年)




「ビルマなのか、ミャンマーなのか?」

「東南アジアの西の端に位置し、 人口はおよそ4500万。 面積は日本の1・8倍近くの67・7万平方キロメートルあって、 昔から日本とは浅からぬつきあいのあるこの国をどう呼べばいのかで、 私たちはまずとまどう。
この地域が日本人に意識されはじめた明治時代の後半から、 ここは「緬甸(読みはビルマ)」、 あるいはビルマと呼ばれてきた。 竹山道雄原作の小説や市川崑監督の映画で有名になった『ビルマの竪琴』の国であり、 第二次世界大戦ではビルマ作戦で多くの将兵が命を落とした土地として記憶され、 思い出されてきた。

ところが、 1989年の半ばから新聞紙上やテレビのニュースでは、 「ミャンマー(旧ビルマ)」という表現が使われはじめ、 現在はその「旧ビルマ」もとれて、 ミャンマーでほぼ統一されている。
89年6月、 ビルマの軍事政権は国連に対して英語呼称の変更を届け出た。 それまでのユニオン・オブ・バーマ(Union of Burma) からユニオン・オブ・ミャンマー(Myanmar) へと変わったのである。ただしビルマ語による国名は、ピダウンズ(連邦)・ミャンマー・ナインガン(国)のまま変わっていない。

国名変更にあたって軍事政権の担当者は、 英語のバーマのもとになったバマーが「ビルマ族」をさし、 ほかの多くの民族が共住する連邦国家としては、 その全てを包含するミャンマーという呼称の方がよりふさわしいと説明した。

しかし、 この説明が正確ではないことを、 内外の多くの識者が指摘している。 バマーとミャンマーはもともと同じ語源の言葉で、 おもに「ビルマ族」とその国土を指すことは明らかであるからだ。 バマーは口語としてよく使われ、 ミャンマーはもともとビルマ語の国称として使われているように文語的な表現である。 人びとはこれまで、 この2つを同じ意味の言葉として、 とくに意識もせずごくふつうに使ってきた。

語源やその解釈についての議論はともかく、 英語呼称の変更を決定したのが軍事政権であることを許せない人びとは数多くいた。

現在の軍事政権は、 国民の大半が参加した民主化運動を武力で鎮圧し、 1988年9月に全権を掌握した。 民主的な手続きを経ていない政権に正当性はないとして、 国民の大多数は支持していない。 そうした政府に国称の変更のようなきわめて重要なことを、 勝手に決定する権限などあるはずがない、 というのが大半のビルマ人の意見である。

もっとも、 そのことを国内で発言する自由は奪われているから、 声がでるのはもっぱら外国に居住するビルマ人たちからであった。 アウンサンスーチーさんも、 機会をとらえては、 英語呼称としては、バーマのままでよいと発言している。 彼女の書く英語の文章でも、 バーマが使われている。

在外ビルマ人のほとんどは英語呼称としては、 ミャンマーを使わず、 バーマを使っている。 またバーマを使いつづけるように世界の人びとに訴えている。 現在でも通信社や新聞社など英語圏のほとんどのメディアは、バーマを使いつづけている。

ところが、 日本ではみごとにミャンマーに変わりつつある。 日本の外務省は、 ビルマば英語バーマからの翻訳であり、 その英語呼称がミャンマーに変わった以上、 日本語表記もミャンマーがふさわしいとしている。新聞社、 通信社、 放送局などのマス・メディアも、 ほぼそれにならっている。

しかし、 日本にも、 ミャンマーを使いたくないちう人が少なくない。 まず、 母国の民主化に向けて日本で活動しているビルマ人たちがいる。 在日ビルマ人協会(BAIJ)、 ビルマ青年ボランティア協会(BYVA)、 民主ビルマ学生同盟(DBSO)、 ビルマ救援センター(BRC) などは、 いずれも日本語ではビルマ、 英語ではバーマを使っている。 彼らは軍事政権の正当性を認めない立場から、 国称変更を認めず、 日本の人たちにもビルマのまま使いつづけてほしいと要請している。

同様に、 日本の研究者やジャーナリストのなかには、 軍事政権を認めない立場から、 みずからの判断でビルマを使う人たちがいる。ビルマに関心を持ち、 勉強会を開いたり、 在日ビルマ人団体主催のデモに参加したりしている学生たちを中心にしたグループ「ビルマ問題を考える会」に集う若い人たちなどが、 その一例である。
ほかにもビルマにこだわる人たちがいる。 つまり、 ビルマはすでに古くから日本語として定着しており、 必ずしも英語バーマの訳語ではない、 したがってバーマがミャンマーにかわったからといって、 日本語の呼称まで変える必要はないとする。 そういう人たちは少なくない。 東京外国語大学と大阪外国語大学には、 ビルマ語のクラスが開設されているが、 そこでもミャンマー語とはせず、 ビルマ語のままで通している。 本書では、 固有名詞としての政府や大使館を指す場合などをのぞいて、 一般にはビルマを使うことにする。」
(pp.@-C、田辺寿夫『ビルマ』−「発展」のなかの人びと、岩波新書、1996年)




「 『ビルマ』 と 『ミャンマー』 」

ところで、 私は「ビルマ」という表現を本書で使っている。 なぜ「ミャンマー」を使わないのか、 1989年6月以降、 国名は「ミャンマー」に変わったではないか、 と疑問に思われる読者も少なくないと思う。 「ミャンマー」ではなく「ビルマ」を使い続ける私の考えを、はじめに説明しておく必要があろう。

確かに軍事政権である国家法秩序回復評議会(SLORC)は1989年6月、 自国の対外向け呼称をそれまでの BURMA から MYANMAR に変更した(ちなみにビルマ語による体内向け正式国名は独立以降一貫してミャンマー)。 それにあわせて日本政府は「ビルマ」の呼び方を「ミャンマー」に変更し、 マスコミの多くもそれに従った。 しかし、はたして機械的に「ビルマ」と呼ぶのをやめて「ミャンマー」なる語を国名として用いてよいのか、私は疑問に思っている。

もっとも、始めに断っておくが、この国名の問題をいわゆる政治問題として扱う気は私にはない。 軍事政権が対外向け呼称を「ミャンマー」に変えて以来、民主化陣営に連なる人々を中心に、 「軍事政権が国民に相談もなく決めた国名変更だから、それに従う必要は無い」として、 その後も一貫して「ビルマ」(英語でバーマ)を使い続けている経緯がある。 このため、 「ビルマ」を使えば「民主化陣営支持派」、 「ミャンマー」をつかえば「軍事政権擁護派」もしくは「中立派」とみなされる、 喜ばしくない現象が生じている。 とりわけ、機械的に「ミャンマー」を使用する人々が急激に増えた為、 「ビルマ」を使うとあたかも政治的に何が特別な意味があるかのように誤解されるようになってきた。 私が「ビルマ」使用にこだわるのは、 私の軍事政権に対する個人的な感情とは関係ない。

ここではまず、軍事政権の説明から見てみよう。 1989年6月8日、国家法秩序回復評議会は、 自国の対外向け呼称を突然それまでの「ビルマ連邦(The Union of Burma)」から「ミャンマー連邦(The Union of Myanmar)」に変更した。 その時の彼らの公式説明は次のようなものであった。

(1) Burma という表現は、ビルマ連邦内に居住する諸民族の中の多数派である「ビルマ民族」だけを指すbama(バマー)と音の響きが類似しており、 多民族国家の名称としてふさわしくない。

(2)ビルマ連邦を構成する諸民族すべてを指す言葉としては Myanmar のほうが適切である。 これがすなわち、「バマー」は狭義のビルマ人(ビルマ民族)を指し、 「ミャンマー」は広議のビルマ人(少数民族を含めたビルマ国民)を意味する、 という見識を示していると言ってよい。 しかし、 この説明に妥当性はあるのだろうか。 以下、二つの疑問点を示しながら考えてみたい。

まず、第一に、「ミャンマー」も「バマー」も本来はビルマ民族(狭義のビルマ人)を指す呼称であるという事実を軍事政権は無視している。 ビルマ民族にとっての最初の統一王朝であるパガン朝(1044−1287)の頃から、 ビルマ民族は自分達のことを「ミャンマー」と公に書き記してきた。 「ミャンマー」の語源にはさまざまな説があるが、 その指し示す対象の中に、 現在のビルマに住む他民族、 たとえばモンやカレン、 シャン、 アラカンなどは含まれていなかった。 一方、 「バマー」の方は「ミャンマー」の口語表現として一般のビルマ人に広くつかわれてきた(ビルマ教育省『ビルマ辞典』第3巻所収「バマー」の項を参照)。 実際ビルマ人の多くは現在においても会話において「バマー」をつかうのが一般的である(ただし92、93年ころから会話でも「ミャンマー」を使う人が増えてきてはいる)。 はじめてビルマを訪れたヨーロッパの人々がこの口語の「バマー」を耳にして、 この国を「バーマ」Burma(英)とか、 「ビルマ」Birma(独、蘭)、 「ビルマニー」Birmanie(仏)と名ずけた可能性は極めて高い。 ちなみに日本語の「ビルマ」は江戸時代末期にオランダ語から入っている(それまでは中国語表記の「緬甸」を使用)。

したがって、 「ミャンマー」と「バマー(ビルマ)」は、 本来の語義としては「狭義のビルマ民族」を意味する文語と口語の関係にあるとみなして差し支えない。 軍事政権が言うような「バマー(ビルマ)」が狭義のビルマ人だけを表すのに対し、 「ミャンマー」はその他の民族すべてをふくめた「ビルマ国民」の表現として適切である、という解釈は成り立たないのである。

第2に、 仮に軍事政権の議論の進め方に従って「バマー」と「ミャンマー」の意味の違いを認め、 どちらかがビルマに住むすべての民族を含めた「ビルマ国民」およびその国の名前としてふさわしい、 という考え方を採用するとしよう。 それでも、答は「ミャンマー」にはならない。 逆にビルマの近・現代史を再検討すれば「バマー」の方に説得力がある。

これについては、 1930年代のビルマの民族運動において重要な役割を果たしたタキン党(我らのビルマ協会)が、 「バマー」をどういう意味をこめて使ったかを考えてみるとよい。 同党が1930年タキン・バ・タウン(1902−76)らによって設立されたとき、 彼らは党の正式名称に「ド・バマー」(我らのビルマ)という表現を用いた。 「協会」を意味する「アスィーアヨウン」と合わせて「ド.バマー・アスィーアヨウン」(我らのビルマ協会)というのがタキン党の正式名称である(同党の特質については本書で後に詳述)。 何ゆえ文語の「ミャンマー」を避けて口語の「バマー」を正式名称に用いたのであろうか。 政党の名称にビルマ人やビルマ国を意味する語を付する場合、 ビルマ語で表現するかぎり「ミャンマー」を用いるのが当然とされていた時代である(有名な1920年に結成されたビルマ人団体総評議会=GCBAも、そのビルマ語正式名称には「バマー」ではなく「ミャンマー」が使われている)。

タキン党の正史『我らのビルマ協会史』第1巻(1976)によれば、 「バマー」の方が、 「ミャンマー」より力強く響くといった理由のほかに、 あえて「バマー」を用いることにより、 英国植民地下のビルマに住む被支配民族すべてを指そうとした、 としるされている(同書133頁)。 そこには狭義のビルマ民族(ミャンマー民族)のみならず、 カレンやカチン、 シャンなど、 英領下のビルマに住む非ビルマ系庶民族(少数民族)をも反英運動に動員しようとしていた意図が見られる。 もっとも、このことはけっしてタキン党が西欧流の「国民(ネーション)」概念を理解し、 それを後の運動に積極的に生かそうとしたということではない(皮肉なことにネーション概念が彼らの間で深刻な問題として認識されるようになるのは、 英国からの主権委譲がほぼ確定した1947年になってからである)。 しかし、 タキン党員の中には少なくとも「ド・ミャンマー」(我らのミャンマー)としたのでは、 狭義のビルマ民族だけの独立運動になってしまうという危惧があったことは確かである。 非ビルマ系諸民族を含む独立運動にすべく、 この段階で「バマー」はタキン党によって新しい意味を付与されたと考えてよい。

タキン党が単なる泡沫政治団体に終わったのであれば、 このことの意味はあまり大きくはないだろうが、 よく知られているように30年代後半以降、 タキン党は徐々に力を蓄え、 ビルマ独立闘争の最前線に踊り出る。 その後、 党自体は日本占領期に他党と合併させられて姿をかえるものの、 同党出身者はビルマ政治史に大きな影響を与え続ける。 日本軍南機関によって結成されたビルマ独立義勇軍(現在の国軍の基礎)の中心メンバーの多くはタキン党出身者であったし(アウン・サン、 ネ・ウィンなど)、 のちの独立ビルマの政治を担った反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)の指導層の中にも、 同党出身者は数多くみられた(ウー・ヌ、 タキン・ティンなど)。 また反政府武装活動を続けたビルマ共産党の指導層も、 派を問わずその大半は元タキン党員だった(タキン・タン・トゥン、 タキン・ソウ、 タキン・バ・テイン・テインなど)。 そして彼らは「バマー」の使用にこだわり続けた。 「ビルマ」独立義勇軍、 バ・モオを元首にしたてあげた日本占領期の‘独立国家’「ビルマ」、 「ビルマ」共産党・・・・。 それぞれのビルマ語公式名称には「ミャンマー」ではなく「バマー」が使われている。 当然、 英語の名称には Burma があてられている。

ただ、 1948年の独立にあたって、 彼らは本来の文語の格調高さを再評価したのか、 ビルマ語による公式国名に「ミャンマー」を採用した。 そしてそれはその後一貫している。 しかし、 対外向け呼称(英語)については Burma を採り、 歴代政府によって1989年6月まで何の問題もなく使用されてきた。

また、 独立後歌われ続けてきた国歌においても、 そのビルマ語歌詞の中で「バマー」がずっと使われてきたことを忘れてはなるまい。 89年6月に対外向け呼称を「ミャンマー」に変えて後はじめて、 国歌の歌詞もそれまでの「バマー」から「ミャンマー」に無理やり変更された(ちなみにこの措置のために同国歌は、 その一部においてビルマ語の声調と曲のリズムとの規則的関係を失ってしまった)。

タキン党出身者たちが本質的にはいかにビルマ民族中心主義的な傾向を持っていたにせよ、 「バマー」がタキン党によってどう意味されてきたのかという共通の記憶はあったはずである。 それがこのような対外向け呼称における Burma の継続使用や、 国歌における「バマー」の使用として表れたのだと考えられる。 また非ビルマ系諸民族の側も、 対外向け呼称が Myanmar ではなく Burma だからこそ、 ビルマ民族と組んで複合民族国家を構成することに納得してきた一面があったといえるのではないだろうか。 実際、 対外向け呼称が「ミャンマー」に変更されたあと、 英字誌 Asia Week などには、 そのことに対して何回か在外のカレンやシャンなどの少数民族による強い不満の投書が掲載された。

このように、 「ミャンマー」への対外向け国名変更に関する軍事政権の見解には無理があると言わねばならない。 要約すると、 「ミャンマー」と「バマー」の意味は同じ狭義のビルマ民族であり、 そこには文語と口語の違いしかないこと。 よって軍事政権の言う、 「ミャンマー」の方が少数民族をも含む「ビルマ国民」(およびその国家)の名称としてふさわしいという解釈は成り立たない事。 また、 近・現代史において重要な役割を担ったタキン党や同党出身者が有してきた解釈においては、 軍事政権の解釈とは逆に「バマー」の方が少数民族をも含めた「ビルマ国民」的な意味で用いられた事。 その経緯があったからこそ、 独立後も対外向け国名は Burma を、 国歌においては「バマー」を用い、 小数民族側も国名について納得してきた面があるのではないかということ。 以上である。

もうひとつ、 このことに関する日本独自の問題を指摘しておきたい。 それは「ビルマ」という呼称が日本語として定着しているという事実である。 「大ブリテンならびに北アイルランド連合王国」のことを外務省は「連合王国」と呼ぶが、 一般日本人は「英国」「イギリス」と呼ぶ。 ソ連の全盛期においても「ソ連語」とはいわず「ロシア語」という表現を用いてきた。 今でも「イラン語」とは呼ばずに「ペルシャ語」という。 これと同じように、 何ゆえ今さら日本語として定着して久しい「ビルマ」を「ミャンマー」に変える必要性がどこにあるのか、 という意味が研究者の中に根強く存在するのである。 軍事政権が対外向けの呼称を変更して「ミャンマー」にしたからといって、 何も日本語の「ビルマ」という表現まで我々が変える義理はない、 というこの主張は正論であろう。

ただし私の場合、 この日本語の問題とは個別に、 前述の「バマー」が用いられてきた歴史的経緯を重視して「ビルマ」という表現を継続使用している。 ビルマ人自ら「バマー」でも「ミャンマー」でもない、 ビルマに居住する諸民族すべてが納得するような、 エスニシティを感じさせない新しい国名(連邦名)を考え出すまでは、 この基本姿勢を崩すつもりはない。

エスニシティを感じさせない国名とは、 たとえば「パキスタン」(清い土地)、 「スリランカ」(聖なる島)などに代表される名称である。 多民族国家として平和に発展していくことを考えるならば、 安易に多数派民族・集団の名前を国名につけるのではなく、 こうした「人工的」国名を考えるという配慮があってもよいのではないかと思う。 ビルマの場合、 とりあえず「シュエピドー」(黄金の国)という伝統的な表現があるので、 それを新国名にしたらよいのではないかと個人的には考えている。ただ、 もちろんこれはビルマ国民でない私が提案すべき問題ではなく、 あくまでもビルマ自身が考え決めるべき問題である。
(根本敬 『アウンサウン −封印された独立ビルマの夢』、pp.9-16、岩波書店、1996年)



「本演説集での国名表記について」

「ここで、 本演説集での『ミャンマー』あるいは『ビルマ』という用語の使用方法について触れておきたい。

SLORCは、 1989年6月18日付けの法律で、国名の英語表記を Union of Burma から Union of Myanmara へ変更した。(1) この法律自体は、国号の変更といった性格のものではなく、 対外的に用いられる英語呼称の変更であった。 しかし、 SLORCが変更の説明および同日発布された国家に関する『指令2/89号(2)』などで、 ビルマ語の『バマー(Bamar)』はビルマ人(族)のみを指す言葉で、 国家の名称としては土着民族全てを指す『ミャンマー(Myanmar)』を使用すべきであるという解釈を示したことで、題がきわめて政治化していった。

ビルマ語における『ミャンマー』と『バマー』の関係についての一般的な理解では、 前者が主として文語表現であり、 後者が口語表現であるという違いで、これまでこの2つの語を意味・内容で区別してこなかった。 いずれも、 狭義のビルマ人(語)を指した。 それゆえ、 SLORC側の主張に明確な論拠が存在しているとは言い難い。 つまりこの時点で、 SLORCは、 『ミャンマー』というビルマ語に新たな意味を付与しようとしたといえる。(4)

この新たな意味の付与に対し、 民主化勢力、 特に国境地帯や国外で活動する勢力は、 国民の合意がない国名変更は認められず、 引き続き英語では Burma を、日本語では『ビルマ』を使用すべきであると主張した。 その後、 日本の『ビルマ史研究者』からも、 SLORCの対外向け呼称の変更にともなって、 日本の外務省やマス・コミの多くが機械的に『ビルマ』から『ミャンマー』に呼称を変更したことに対する疑問が提示された。(5) そして『『ビルマ』(バマー、BURMA)という国名を使い続ける方が、 ビルマの近・現代史の流れからみて妥当性がある(6)』との見解が出された。

しかしながら、 この見解が近・現代史の研究から導きだされたものであるとすれば、 やはり一面的な解釈にすぎない。 この見解では、『1930年代のビルマの独立闘争において重要な役割を果たしてきたタキン党が、『バマー』をどう意味を込めて使ってきたかを考えて』見る必要があるとし、 『タキン党の正史』とされるべき文献から『敢えて『バマー』を用いることにより、 英国植民地下のビルマに住む被支配民族の全てを指そうとした』というタキン党の論理をとりあげている。 そしてこの時『『バマー』はタキン党によって新しい意味を付与されたと考えて良い』としたうえで、 これを『ビルマ』を使用すべき論拠としている。 (7) しかし、 こうした論理を突き詰めていけば、 たとえば、 1974年憲法制定にさいして、 この憲法の注釈書などで、 当時のネーウィン政権が『ミャンマー(Myanma) 』というビルマ語に少数民族を含む国民という意味合いを込めようとした事実は(8)、 どのように解釈されるべきなのか疑問が残る。 タキン党が『ビルマ政治史に無視できない影響を与え(9)』たならば、 ネーウィン政権もミャンマー現代史において無視できない存在である。 同様のことは、 今回のSLORC政権の『ミャンマー』という言葉への新たな意味の付与についても当てはまる。 『ビルマ』を使用すべきであるとする見解をとるならば、 なぜ、 タキン党による意味付けは『正しく』、 ネーウィン政権やSLORC政権による意味付けは『誤りである』ということになるのか、 別の論拠が示されなければならない。
しかし、 ここで確認しておきたい事実は、『バマー』あるいは『ミャンマー』という言葉に、こうした論拠のない意味付けを行ってきたのは、タキン党であろうが、ネーウィン政権であろうが、SLORCであろうが、ビルマ人の側であった点である。(10)


  民主化勢力などが『ビルマ』を使用すべきであるとする主張には、それなりの政治的意味があり、そうした政治的主張を行う立場を否定するものではない。しかしながら、そのことと、日本語表記をどのようにすべきかといっった問題を直接的に結びつけるべきではない。

  そこで、本演説集の解説・注記では、国名・地名・人名などの表記に関しては、できる限り現地語(原音)に近い表記を採用していこうとする現地主義の立場に立って、政治的意味合いを込めずに機械的に、公用語としてのビルマ語音にできる限り忠実に日本語表記することにした。ただし、民族としてのビルマ人(族)、ビルマ語、『ビルマ式社会主義』などの歴史的用語として定着したものには、『ビルマ』を用いた。(11)

  従来、現地主義の立場に立っても、一般的に定着してきた用法(たとえば『ビルマ』という国名)に関しては、何らかの理由で問題とならない限り、慣用表記として引き続き用いられてきたが、その意味では、SLORCの国名の英語表記変更、それに対応した日本の公的機関、マス・コミなどでの『ミャンマー』の使用が、従来の慣用表記を見直す切っ掛けとなったと考え、解題・注記などにおいては、国名として『ミャンマー』を使用する。(12)

  しかしながら、現存の国境線にしたがった国家あるいはその国家が使用する公用語を基準に据えた現地主義という立場を採用するさいの最大の問題点は、対象国が多民族国家で、独立・民族自決を主張する民族集団が存在し、かりにそうした集団が現存の国境、公用語を認めないといった立場にたつ場合、一方(国家)の主張を受け入れたと受け取られる危険性があることである。多民族国家であり、かつ国境地帯を中心に少数民族反政府武装勢力が存在しているミャンマーにおいては、国名一つの表記においても慎重にならざるをえない。よって本演説集の解題・注記などにおいて『ミャンマー』という言葉を使用するとしても、それは『ミャンマー』という国名表記が絶対的な正当性を持つとか、『ミャンマー』という言葉にこそが少数民族を含む国民を指しているということを意味しているわけではない。ここでは、あくまで機械的に、右に述べてきた現地主義を採用したということを意味するのである。


<注>本演説集での国名表記について
 (8)たとえば、1974年憲法の注釈書では、国名には、少数民族を含める意味合いで、『ミャンマー(myanma)』というビルマ語を使ったとされている。Myanma Hsoshelit Lansin Pati(ミャンマー社会主義計画党)、Pyihtaunsu Hsoshelit Thanmata Myanma Nainganto Phwesipoun Akhyeikhan Ukadei hninpatthettho AdeipeShinlinkhyetmya (ミャンマー連邦社会主義共和国にかんする注釈)、n.p.,1973, p.18, また、74年憲法制定にさいして、こうした議論があったことを指摘した研究として、Robert H. Taylor, "Burma's National Unity Problem and the 1974 Constituion," Contemporary Southeast Asia, Vol.1, No.3, 1979, p.238/Robert H. Taylor, The State in Burma, London, 1987, p.2 を挙げることができる。

(10) この点に関して、松元亜里『メリー・ソーの記憶 連載@』『思想の科学』第34号、100〜116ページ、特に115ページが参考になる。『ビルマ』『ミャンマー』議論に関して『でもミャンマーもバーマもビルマもみな、”ビルマ民族の言葉”マーミーズ(ビルマ族)のことです』、『私が小学校に通っていたとき、国のなかではミャンマーと習っていましたから』というあるラカイン人女性の率直な感想が記されている。 (11) 日本語で従来使用されてきた『ビルマ』という表記に関して、藪は『おそらく江戸時代末期にオランダ語から入り、明治以降、定着するに至ったものと考えられる』(藪、前掲、600項)と指摘している。つまり『ビルマ』という呼称は、第三国の言語を介してのもので、ビルマ語の『バマー』や『ミャンマー』から直接日本語に置き換えられたものではなかった。しかし、それが現在まで慣用的に使用され続けてきた。それゆえ、ビルマ語の『バマー』を日本語で引き続き『ビルマ』と表記するのは、この慣用表記を依然踏襲していることになる。現地主義の立場に立つならば、『バマー』という日本語表記を用いるべきであるが、この表記は日本人には、まだあまりにも馴染みの薄いものと考え、ここでは従来の『ビルマ』に置き換えた。

(12) たとえば、従来ビルマ人が憲法などで使用してきた国名のビルマ語表記を見ると、1947年憲法では、Pyihtaunsu Myanma Naingan (直訳すれば『ミャンマー連邦』であ り、1974年憲法では、Pyihtaunsu Hsoshelit Thanmata Myanma Nainganto (直訳す れば『ミャンマー連邦社会主義共和国』)となっていたが、これを日本では『ビルマ連邦』『ビルマ連邦社会主義共和国』と置き換えてきた。SLORCの国名の英語表記変更まで、こうした用法が日本で使用され続けてきたことに対して、これが慣用表記だからとして、積極的に疑問を提示してこなかったことについては、一人のミャンマー研究者として怠慢の謗りを免れえないが、『ビルマ』はあくまで第三国語経由の呼称であり、もし、この問題が政治化する以前に、学会、公的機関、マス・コミなどが現地主義の立場にたって、根本的な見直しをしていたら、おそらく『ミャンマー』が採用されていたことは、容易に想像できるし、それに対する強烈な反対は起こらなかったに違いない。  なお、この議論との関連で、本演説集に取りあげた資料からも分かるように、アウンサンスーチー自身も、ビルマ語の『バマー』と『ミャンマー』を、意味内容を問題にしながら使い分けているとは思われない。また、この問題が起こった後もビルマ語演説では多くの場合『ミャンマー』を使用している。さらに1995年7月の自宅軟禁解放後も、英語のインタビューでは Burma を使用しているが、ビルマ人民衆に対するビルマ語の演説では依然『ミャンマー』を使用している。また、SLORCの法律が発布される以前の他の資料においては、多くの場合、国名としては『ミャンマー』というビルマ語が使われている。」
(伊野憲治編訳 『アウンサンスーチー演説集』 pp.5-8, pp.293-295、みすず書房、1996年)




「●国名と地名について」

「本書では、 国名は全て「ビルマ (BURMA)」と表記した。 軍事政権が1989年6月に「ミャンマー連邦」と国名を変更して依頼、 一般には「ミャンマー」と呼ばれている。 しかし、 KNU(カレン民族同盟)をはじめとする反政府少数民族や ABSDF 、そしてビルマの民主化をめざすアウンサン・スーチーら野党指導者は、 法的正当性のない軍事政権にゆよる国名の変更を認めず、 いぜんとして「BURMA」を使用している。
なお、主要な地名については、軍事政権登場以前の英語読みのままとした(筆者)」
(山本宗輔『ビルマの大いなる幻影』、社会評論社、1996年)




「ビルマ」から「ミャンマー」へ

「1989年6月に軍政は正式国名を Union of Burma から Union of Myanmar に改称した。Burma という語源は、15〜6世紀にこの地を訪れたポルトガル人に呼称されたのだが、のちに英国人によって受け継がれたものといわれている。英領植民地時代からミャンマーの人々は自分たちのこと、あるいは国のことを Burma からとった「バマー」と、それよりかなり以前から使われていた「ミャンマー」という言い方の両方を使っていた。独立後も英国が使用して国際的に通用する Burma を国名として便宜上使用していた。しかしその間でさえ、ミャンマー語(ビルマ語)の表記では国名を「ミャンマー」としていた。したがって、国名をミャンマーと変えたことについてミャンマーの人々になんらの違和感はない。軍政が実施したことで、軍政に反対している人々にとっては認めたくないことである。しかし、これは日本人が自分たちや国のことを「日本人」「日本」と呼ぶこととなんら変わらないことである。

 そして軍政府は同時にこれまで英国植民地下で英国流に使用されていた地名も本来の呼称に変えた。例えば、首都「ラングーン」も本来の「ヤンゴン」に変えている。本書では、基本的に現在の異については「ミャンマー」で呼称統一するが、歴史上「ビルマ」で通用していた呼称、あるいは固有名詞化しているものは「ビルマ」と表記することとした。」
(桐生稔・西澤信善『ミャンマー経済入門』、pp.1-2、日本評論社、1996年)




Myanmar vesus Burma

In 1989 the official English name of the country was changed from the Union of Burma to the Union of Myanmar to conform to Burmese usage. There has been no change in the Burmese name for the country. 'Myanmar' has in fact been the official name since at least the time of of Marco Polo's 13th-century writings;the first Burmese-language newspaper, published in 1868, was called Myanmar Thandawzin, translated by the British as 'Burma Herald'. In the country's 1947 Constitution, the Burmese version reads 'Myanmar,' the English version 'Burma'.
In Burmese literary contexts, 'Myanmar' is used to refer to the whole country, 'Burma' (from whence the English got 'Burma') to refer to Burman ethnicity or to the Burman language. In everyday parlance, 'Burma-pyi' (or 'the land of Burman ') may also be used to refer to the country. The new government positions finds 'Myanmar' more equitable since it doesn't identity the nation with any one ethnic group.If the country military regime releases control of the government to the National League for Democracy, however, there's always the possibility all the names could evert back to their colonial versions.
Linguistically speaking the change is quite reasonable, but it has become something of a political football between the opposition and the government. The official United Nations designation is now 'Myanmar' and Amnesty International uses this name as well; some English-language periocicals - such as Asiaweek - recognise the change, while others(eg Time) don't.
The 'r' at the end of 'Myanmar' is merely a British English device used to lengthen the preceding 'a' vowel; it is not pronouced. State enterprises that use 'Myanmar' in their titles typically spell the word withoutan 'r', eg Myanma Airways, Myanmar Five Star Line, Myanma Timber Enterprise and so on.
Myanmar(Burma) 6th edition, Lonely Planet Publications, 1996, p.20




「なお、本書では現在の国名ミャンマーについては、憲法を停止し、明らかに合法性に欠けているSLORC政権によって変更されたもので正統ではないとのウ・タウン氏の主張に従って、ごく一部の表現を除き旧国名ビルマを採用した。」
(「訳者あとがき」p.248、『将軍と新聞』ウ・タウン 著 水藤 眞樹太 訳・解説、1996年)



「国名について」

 「1989年6月18日、国名が「ミャンマー連邦」に変えられた。 「ミャンマー」とはビルマ民族名のビルマ語文語読みで、従来は口語読みの「バマー」が使われていた。 軍事政権は「ミャンマー」に、ビルマ人以外の諸民族を同化するするという政治的意図を込めている。また、国民の総意に基づく変更ではなく、民主的手続きも経ていない。 これらの理由から、「ミャンマー」という国名は、民主化を望む国民に受け入れられたとは考えられず、軍事政権に反対する人々は使っていない。 また、各国のビルマ研究者の間でも「ミャンマー」を使わないことが多く、ジャーナリズムのなかでも日本以外の国では使わない場合が多い。 よって本書でも従来のビルマを国名として使うことにする。 地名や州名だども取材当時のままとした。」
(吉田敏浩『森の回廊』、NHK出版、1995年)




「*ビルマとミャンマー」

「89年6月、 ビルマ政府は同国の英語での呼び方をバーマ(Burma) からミャンマー(Myanmar) に変更した。 公用語であるビルマ語による表記および呼称は変えていない。

政府公式コメントによれば「ミャンマーは多民族国家の全民族を指し、 ビルマはその一部を代表するから」ということだが、これには異説もある。

イギリス、 オランダ、 スペイン、 フランスなどの西洋諸国の表記では、バーマ、バマー、バルマ・・・・・などとなっているが、 現地人がミャンマーと発音したのを、「バマー」であると聞き取ったもので政府のいうような区別はないのだとか。同様に首都ヤンゴンもミャンマー人の発音も昔のままだが、ラングーンと聞き誤られたという。そこはそれ、民族も言語も入り乱れているこの国のこと、正確なところは検証しようもないようだ。  ついでに日本語のビルマという表記は、オランダ語経由で入ったらしく福沢諭吉の『世界国儘(くにづくし)』という著書には「尾留満」とかかれている。」
(加藤徳道著、丸紅広報部編『ミャンマーは、いま。』、pp.132-133、ダイヤモンド社、1995年)



「ビルマ」は現在国名を「ミャンマー」と改称した。しかし本書では「ビルマ」のままとした。地名はなるべく日記に従った。
(塩川優一『軍医のビルマ日記』、凡例(G)、日本評論社、1994年)


「国名の呼び方について」

「1989年6月18日、時の軍事政権は、対外的英語呼称を Burma から Myanmara へと改め、日本の外務省もこれにしたがって、日本語の正式呼称を「ビルマ」から「ミャンマー」ひえと改めた。「ミャンマー」というと語は「シャン人」「カレン人」「カチン人」など、ビルマ国民を構成する数ある民族集団の一つとしてのビルマ人を意味するビルマ語であるが、軍事政権は「ミャンマー」をもって丘の少数民族をも含んだビルマ国民を表す語と規定したことになる。こうした措置に対しては、これは軍事政権のビルマ人中心主義姿勢の現れという見方があり内外の研究者の間でさまざまな議論が続けられている。欧米の学会では「ミャンマー」という語をこの国の外国語呼称として使わない学者少なくない。日本では新聞、雑誌等で次第に「ミャンマー」の使用が広がりつつあるが、「ミャンマー」という対外呼称の背景には、軍事政権対民主勢力の対立という高度に政治的問題が含まれているので、日本の研究者なかでもこお呼称の使用については見解が別れている。」


「『ビルマ』『ミャンマー』という名称の来歴をたどってみよう。西洋の諸言語では『ビルマ』、『バルマ』、『バーマ』などと呼ばれ、日本語には江戸末期から明治初期にオランダ語から、『ビルマ』という呼称がはいったものと考えられる。古くは『尾留満』(たとえば、福沢諭吉『世界國蓋』1869年)と書かれたことがある。それでは、ビルマ語ではどう呼ばれてきたのあのであろうか。12世紀以降、ビルマ語碑文に『ムランマー』(初出は1190年)という民族名が見える。それはそのままビルマ文語の『ムランマー』にひきつがれ、音変化を経て『ミャンマー』となった。口語では、ミャンマーが、ママー(推定形)、ないしはブランマー(推定形)から『バマー』になった。一方、西洋諸言語のビルマを意味する語形は、文語のムランマーにさかのぼる。ビルマ語が語頭の子音連続 mr- を失ったあとも、ビルマと聞いて音写したものと考えられる。ついでながら、ヤカイン地方の『マルマ』族の名称は、これとは少し違った音変化をたどって生まれたものである。

 英語の『バーマ』も、したがって、ミャンマーの古い形式ムランマーに由来する。直接、バマーという口語形につながるわけではない。

 また、ビルマ政府は、『ミャンマー』はビルマの全民族を指し『バマー』はビルマ族だけを指すとし、国家の歌詞の『バマー』を『ミャンマー』にさしかえた。すでに見たように、ミャンマーとバマーはともにビルマ族を指す名称で、現代ビルマ語の用例からみても、前者は公式(文語)の、後者は略式(口語)の言いかたという違いがあるにすぎない。政府は、こお2つの語形を全く別のものとして、前者に新しい特別な意味を賦与したものと解釈しなければならない。

 民族、言語、文化は、原稿の国家の領域と統治によってのみ規定されるものではないので、学術的な用語としては、明治時代以来用いられ定着している『ビルマ』を用いる方がよいであろう。
(「『ビルマ』と『ミャンマー』」pp.91-92 『もっと知りたいミャンマー』第2版、綾部恒雄・石井米雄編、1994年)



「*−現政権は新たな国際的なイメージをつくり出すために、1989年、国名を「ミャンマー」と改名し、国連ならびにすべての政府は、これに準じた。国家法秩序回復評議会(注:国家平和発展評議会)は、「ビルマ」を全国民を包含しないが「ミャンマー」はすべての先住民を含むものだと主張する。しかし民衆は、本質的な解決につながらないこのような措置を、厳しく批判している。国外住民も、非合法政府が国名を変える権利はないと主張している。したがって、本書では新しい国名を用いず、従来どおり「ビルマ」と呼ぶことにする。」
(伊従直子『アジアの 民主化と 女たち』、p.12、明石書店、1994年)



" When the Dohbama Asiayone was established in the 1930s, there was a debate among the young Burman nationalists as to what name should be used for the country: the formal, old royal term myanma or the more colloquial bama, which the British had corrupted into "Burma" and made the official name of the colony. The nationalists concluded: Since the Dohbama was set up, the movement always paid attention to the unity of all the nationalities of the country...and the thakins noted that myanma naingngan[the myanma state]...meant only the part of the country where the Burmans lived. This was the name given by the Burmese kings to their country.But this is not correct usage. Bama naingngan is not the country where only the myanma people live. It is the country where different nationalities such as Kachins, Karns, Kayahs, Chins, Pa-Os, Palaungs, Mons, Myanmars, Rakhines, Shans reside. Therefore, the nationalists did not use the term myanma naingngan or myanmapyi[myanma country], but bama naingngan or bamapyi. That would be the correct term. There is no other term than bama naingnagan or bamapyi. All the nationalities who live in bama naingngan are called bama. Thus, the movement became the Dohbama insted of the Dohmyanma. Half a century later, in 1989, Burma's new military rulers decided that the opposite ws true and renamed the country "Myanmar":"Bama...is one of the national groups of the Union only ...myanma means all the narional racial groups who are resident of the union such as Kachin, Kayah, Karen, Chin, Mon, Rakhine, Bama and Shan." A similar confusion exists in English where some scholars maintain that "Burman" refers to the majority people who inhabit the central plains whereas the term "Burmese" covers the language of the "Burmans"-as well as all citizens of the country, including the minorities. All the contraditions reflect an inescapable fact which many Burmans are still reluctant to acknowledge: there is no term in any language that covers both the Burmans and the minority peoples, as no such entity ever existed before the arrival of the British in the nineteenth century. Burma, as we know it with its present boundaries, is a colonial reation rife with internal cotradictions and divisions.
Bertil Lintner, Burma in Revolt -Opium and Insurgency Since 1948 (White Lotus, Bangkok,1994) p.41




「あとがき」

 「私は、アウン・サン・スーチーのファンではない。  私は、ジャーナリストであり、<事実>を尊重する。<事実>とは、1990年5月の総選挙でスー・チーが総書記を務める「国民民主連盟」(NLD)が、485議席中392席を獲得したということだ。 ・・・

 このノンフィクションは、<ビルマ>という国名を用いた。1989年6月18日、軍事政権は国名を<ミャンマー>と、<ラングーン>を<ヤンゴン>と改めた。しかし、<暫定政権だ>、<選挙管理内閣だ>、といい張ってきた軍事評議会が国号を改めるのは道理に反する。現在ビルマに居座っている軍事政権こと「国家法秩序回復評議会」の主要メンバーである、ソウ・マウン上級大将(首相、国防大臣、外務大臣)、キン・ニュン少将(評議会第一書記)、エーベル准将(貿易計画財務大臣)、チッ・スエ中将(農林畜産大臣)らは、「長く政権にしがみつくつもりはない、誰が勝利しても選挙結果に従う」と、異口同音だった。私の耳が、彼らのことばを覚えている。

 日本では、国名が変わると右向け右で、外務省からすべての報道機関が<ミャンマー>と表記するようになった。しかし、アジア問題でも最も権威のある英文雑誌、『Fare Eastern Economic Review』や、欧米の報道機関の一部は、以前として<ビルマ>を用いている。私が<ミャンマー>ではなく、<ビルマ>を用いたことは、私の態度の一端を明らかにするだろう。」
(三上義一『アウン・サン・スー・チー 囚われの孔雀』、pp318-319、講談社、1992年)




「ミャンマー」という呼称は、ソオマウン政権が軍事クーデターで権力把握後、国民 に信を問う選挙で2%の議席しか獲得できなかったなかで国民の意思を問うことなくつけられたものである。現政権存続の正統性を疑う立場から、筆者は他の多くの専門 家とおなじように、独立以来定着している「ビルマ」を使っている。
(加藤博「政治権力を操る軍人たち[軍部・軍事組織]」、p57、松下冽編『アジアの人び とを知る本C支配する人びと』、大月書店、1992年)


 「ビルマ連邦政府は、1998年6月に国称をミャンマー連邦、その首都ラングーンの呼称をヤンゴンに変更(他の地名についても同様)しました。日本語版への翻訳にあたってマイケル・アリス氏(注:アウンサンスーチー氏の夫)から、原著の英文どおり国名はビルマに統一していくれるよう、強い要望がありました。スーチーさんの原稿が、1989年以前のものであることを尊重し、彼女の原稿での表記は原文をいかすことにしました。また、第3部もそれに準じました。」
(アウンサン・スーチー著、マイケル・アリス編『自由』、p11、集英社、1991年)




The terms 'Burman' and "Burmese" are confusing and are often used interchangeably. But generally 'Burman' is used to refer specifically to ethnicity and 'Burmese' to nationality, i.e., someone could be ethnic 'Shan' but a 'Burmese' citizen, The introduction by SLORC of the Burman term 'Myanmar' for 'Burma'/'Burmese' in 1989 has yet to become widely accepted colloquial usage and is not used here.
Martin Smith, Burma: Inseurgency and the politics of Ethnicity (Atlantic Hightlands, New Jersy: Zed Books, 1991), p.29-30



「読者のみなさまへ」

 「東南アジアの西端に位置するビルマのことはなかなか日本のマスコミに登場しません。ちなみに、現政権は1989年6月にその正式国称をミャンマーにかえましたが、この決定をした軍事政権を支持しないわたくしたちは、母国をビルマを呼び続けています。」
(在日ビルマ人協会編『ビルマでいま、何が、起きているのか?』、p.23、梨の木舎、1991年)

「ビルマ」と呼ぶか「ミャンマー」と呼ぶか。議論は一見、分かれているように思えるが、そうではない。強引に分けようとする思惑が見える。私は、「ビルマ」を使う。