『目ざめへの旅』 エドガー・スノー自伝
E・スノー 松岡洋子訳 筑摩叢書 322 1988年


「民族の優越とは、一時的にその民族が持っている技術の優越にほかならないということを明らかにした。」
(P20)

「政治とは、医学と同様に、処方する以前に診断されなければならぬものなのだということわたしはいまだ学んでいなかった。・・・一国の政治の動きを最終的に決定するものは、外国からの価値判断よりも、底深く内在する渇望によって生み出される具体的な要求だという・・・」(P27)

「どのような特派員でも外国の最悪な事柄の報道に専念すれば、それで生活ができ、それを掲載新聞は自国の最悪な事柄については一行も報道しようとはしないということである。」(P29)

「歴史の渦の中に入らなければならないと思った。」
(P31)

「他の人びとがどう考えようとそれはどうでもいいことだ。もしあの隣人が焼け死ぬのをだまって見ていたとしたら、わたしはどう感じただろうということこそ問題なのだ。そして、このように隣人に対して関心をもつことが、白人キリスト教徒特有のものでないことをわたしは当時まだ知らなかったのである。」(P34)

「表面の風景は短期間の力者を欺くものである。」(P37)

「新聞記者の義務と特権はすべてを見、その十分の一だけを書くことであるが・・・」(P43)

「植民地主義が下劣なのは、その制度と手段が人間の人格を無視し、傷つけることに成功する点にあるのだとさとった。」(P45)

「ネルーと会見した際、彼はこう語った。『・・・私はまた、それが宗教的なものであろうと、なかろうと、人々が現世において、より幸せに、より高度な文明を得ることができ、真に人間となり、自己の将来を決定し、自己の意志の主人になれるのだと教えないいかなる秩序にも反対する・・・』」(P76)

「われわれは、我々の認識する『真実』と合致した文章を『客観的』という。」( P83)

「定期的な収入や年金とひきかえに、一生の自由を売り渡すべきや否や、それが問題であったのだ。・・・だが、わたしにはなんの財産もない。財産のないフリー・ランサーは奴隷にすぎないのだ。」(PP.121〜122)

「外国人が一緒になれば悲劇を防止できると、・・・防止できたのである。」(P142)

「この諷刺詩は『成功をみるまではすべてが不可能である』」(P158)

「わたし自身の言動の故に、生命を危険にさらすようになった中国の人びとに対して、責任を感じないではいられなかった。」 「戦争報道員が良心のやましさから、賢い兵隊ならおかさぬような馬鹿らしい危険に身をさらす時でさえも、それはあくまでも弥次馬の姿勢であり、憤懣やる方ない調子で描写しても、傍観者の見る戦争でしかあり得ないのである。」(P186)

「『人間が無謀に生命をかけるときには、自分自身と戦っているときだ。僕は知っている。一回やったことがあるからな。』」(P189)

「飢饉とは年寄りのように乳房のしぼんでしまった裸の若い娘を意味し、恐怖とはごげついた戦場に放置された、身動きできぬまままだ生きている兵隊の、化膿した肉体に食いついている鼠の一群であり、暴動とは動物のように四つんばいになって歩かされていた子供から感じとられた憤怒を意味し、”共産主義”とは息子三人が紅軍に参加した廉で家族、親戚五十六名が処刑されことに復讐して闘っていた知人の若い農民であった。戦争とは陵辱され、腹をたち切られわたしの目の前で閘北の街道に投げだされた裸の娘であり、殺人とは保健省の近くの小路の塵芥の上に捨てられた、赤ん坊の黄色い死体であった。日本の”アジアにおける反共政策”とは、わたしの目の前で爆撃された建物の破壊跡からはみ出た孤児の脚と腕であり、非人間性とは、四川省の街道で、残飯を奪いあっていた乞食が相手の首をしめて殺したのを眺めていた絹服の男どもの笑い声であった。」(P230)

追憶できる年齢に到達するほど幸運であるならば、長い生涯は年限で計るべきものではなく、その内容の豊富さで評価すべきものであることを人は知る。過去のものとしてふり返ってみるときに初めて、どこで一つの人生が終わり、新たな生活が始まるかを識別することができる。」
(P231)

「人は自国の立場に対してごく自然に個人的執着を持つため、より大きな必要事である正義を理解する上で偏向に陥りがちである。」(P257)

「個人がその染色体と起源から逃れられないように、国家はその歴史から逃れることはできないのである。」
(P270)

「目的が良ければ手段が悪くても”かまわない”ということにはならない。またよい目的は決して悪い手段ばかりで達成されないことも事実である。だが、手段が”悪い”とわれわれに見えるというだけの理由で、目的あるいは目標の論理的、道徳的価値が不適切であるとは言い難い。それはおおきな意義をもつ。」(P319)

「『憎しみ・・・・・憎悪と何であるか。それは戦争の論理である』」(P356)

「誰でも明らかにある程度の”自由意志”を有し、その行動に責任を持つ。だが、その範囲は何と狭いことか。」(P359)

「『自分と考えの違う人びとが、必ずしも悪者でないことを、知らなければならない』」(P390)

「二十年という、わずかの間に、アメリカは、世界的な責任を負い、かつてない大規模な軍事的なまた非軍事的な援助を諸国に与えてきた。・・・だが、アメリカ外交政策についてひとつ言えることは、その強大な力を侵略戦争を始めるために使ったことはなかったということであり・・・・・」(P410)

「やっかいな事実は地球上に住む人間の十六人のうち十五人まではアメリカ人でなく、アメリカの政策をひきずっている。」 「過去を復帰させようとする懐旧的な夢のような政策は必ず破局に至るものである。」(P411)

「われわれのすべてが隣人の目にあるちりをはらう前に、自身の目にあるうつばりを取り除くべきである。」
(PP.411〜412)

私の尊敬するジャーナリストのひとりであるエドガー・スノー氏の自伝である。訳も良かった。
この本を読むと、いかに優秀なジャーナリストであっても、個人の思想は、彼の生きる時代や歴史から逃れられないのだと感じてしまった。
もし私が中南米に関わりのない取材者であったならば、スノー氏の「アメリカ外交・・・侵略戦争を始めるために使ったことはなかった」というくだりを読み飛ばしていたかもしれない。
また、スノー氏が評価するルーズベルト米国大統領に対する評価をそのまま受け入れてしまっていたかも知れない。
しかし、米国が中南米で行ってきた政策を知るようになると、今も昔もかの国の政策に変わりはないと思い至った。
かといって、中国革命を肌で取材し・記録してきたスノー氏の業績や記録、彼の取材姿勢への評価は減じるものではない。
これまでに何度も何度も読み返してきた本の一つである。