『 メメント・モリ 』 Memento-Mori (死を想え)
( 藤原 新也 情報センター 1983 )


 「 いのち、が見えない。
 生きていることの中心がなくなっ
 て、ふわふわと綿菓子のように軽
 く甘く、 口で噛むとシュッと溶け
 てなさけない。
 しぬことも見えない。
 いつどこでだれがなぜどのように
 しんだのか、そして、生や死の本
 来の姿はなにか。
 今のあべこべ社会は、生も死もそ
 れが本物であればあるだけ、人々
 の目の前から連れ去られ、消える。

 街にも家にもテレビにも新聞にも
 机の上にもポケットの中にもニセ
 モノの生死がいっぱいだ。
 本当の死が見えないと、本当の生
 も生きれない。 等身大の実物の生
 活をするためには、等身大の実物
 の生死を感じる意識をたかめなく
 てはならない。
 死は生の水準器のようなもの。
 死は生のアリバイである。

 MEMENTO−MORI

 この言葉は、ペストが蔓延り、生が
 刹那、享楽的になった中世末期
 のヨーロッパで盛んに使われたラ
 テン語の宗教用語である。 その言
 葉の傘の下には、私のこれま
 での生と死に関するささやかな経
 験と実感がある。」
( 「 ちょっとそこのあんた、顔がないですよ 」 )

「 ・・・・・。
あの人骨を見たとき、
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、死は病ではないのですから
・・・・・。
動物は自然を真似る。
自然を真似るということは、自然の中にある
道徳 ( モラル ) を真似るということです。自然は生存の
ための道徳の構造を備えている。それを写実
していくのが原初の宗教です。・・・。」
( 「 乳海 」 )

「・・・・・。
肉親が死ぬと、殺生が遠ざかる。 一片の
塵芥だと思っていた肩口の羽虫に命の圧
力を感じる。 草を歩けば草の下に命が匂
う。 信仰心というのはこんな浅墓な日常のい
きさつの中で育まれるものか。老いた者の、
生きものに対するやさしさは、ひとつにはそ
の人の身辺にそれだけ多くの死を所有したこ
とのあらわれと言えるのかもしれない。
・・・・・。
( 「蝶翳 」 )

「・・・・・。
ひとがつくったものには、ひとがこもる。
だから、 ものはひと心を伝えます。
ひとがつくったもので、ひとがこもらないも
のは、寒い。

・・・・・。」
( 「 紅棘 」 )

 根をつめてパソコンに向かっていたとき、ひょいと本棚から取り出したのがこのフォトエッセイだった。 16年前に買ってほとんど目を通さなかったのだが、なぜか捨てることができなかった。
  あとがきとも言える 「 汚されたらコーラン 」 という終章で藤原氏は、「 この本は汚れれば汚れるほど良い。Gパンのように古びれば古びる程良い。・・・」 と記している。氏が期待しているほど外見は古びれてはいないが、ついつい項をめくってしまう内容が詰まっている。 でも、なぜタイトルに聖書や仏典といわずにコーランをあげたのか不思議でならない。
かなり観念的な内容であるが、漂流者としての氏の想いが、今になって伝わってきた。
写真一枚に、文言ひとつに含みがある。
項をめくり終わって、一番最後の一言、 「 わたしは、あきらめない 」 。 重たいメッセージだ。