『 記者志願 』
( 斉藤 茂男 築地書館 1992年

「 私また姿勢を低くし、 この時代を懸命に生きている ” 普通の人々 ” の哀歌に寄り添って、 これからも記者の仕事をつづけていきたいと ・・・」 (P15 )

「 そういう体験を通して自分の予見をはるかに超え、 自分の計算どおりには絶対に動いていかない 『 現実 』 というものの、重く、したたかな抵抗感を、肉体的疲労感とともに自分の精神にしっかり刻みこむことだ」
「 こうした体験をただ体験に終わらせては意味がない。 その体験から得た 『 現実 』 感を抽象的思考とつなげ、 具体から抽象へ、 抽象から具体へと絶えざる往復運動を繰り返しながら認識を深めていく−」 (PP..25−26)

「 なぜ真実が見えなかったのかと、 一人ひそかに恥じ入る仕儀となるのだ。
その原因はいろいろある。 古ぼけた持ちネタを後生大事に使い、 刃こぼれした切れ味の悪い論理にいつまでもしがみついて、 いつも同じ切り口で現実に接近し、 いつも同じ見出しが付いてしまいそうな結論へ、 現実の方を強引に引き寄せようとする−そんな硬直したものの見方から、なかなかぬけ出せないのです 」 (PP..27−28)

「『 人間とは何か 』 を深く考えさせてくれるような、そして具体的な事実で時代の悪臭をあばき出すような報告を読みたいものだ 」 (P31)


「 情報はいくらたくさんあっても、本当の認識には昇華しない。 頭で知るのではなく、 ある感動を持って心で思いを凝縮させていき、 自分の内面に変化が起きたとき、その情報ははじめてわれわれの血肉になる− 」 (P47) 

「 現実というシロモノはこちらの思いどおりの姿で存在してくれてはいない。 だいたいは予見は裏切られる。 『 真実 』 というやつは、そういう自分の予見をこわしたところから見えはじめるのだが・・・・・」 (P52)

「 『 効率 』 と 『 速度 』 と 『 正確さ 』 と 『 利回り 』 にやたらと敏感で、 心のどこかで、 劣等弱小の存在は淘汰されても仕方がないのだと思っている大人たち。 この硬質な技術至上社会の表層の豊穣さにうつつを抜かしていると、 この先まだ、 想像を絶することが起こるかもしれない 」 (P60)

「 精神の自由とか、 精神的自立とか、 いわば人間が 『 人間らしく生きる 』 ことの証ともいうべき、 何ものとも引き替えにできないかけがえのない価値 − そういう本来、 民主主義が本物の民主主義であったならば、 われわれの社会がもっとも貴重な財産としてすでに手にしているか、 あるいは目標価値として明快な輪郭をもって存在しているはずのもの − それへの渇望感がすっかり萎えてしまっている 「 円 」 至上社会の腐臭を、銀行員たちは言い当てているように思えた 」 (PP..102−103)

「 だれもが 『 昭和 』 は終わった、 終わったと声高に言うけれども、 どうしてそんなに軽々と身をひるがえして、 時代を渡って行ってしまうのか 」 (PP..106−107)

池田 − 日本の場合だと、 それこそお金がなければほとんど人として認められないような風潮がありますが、 お金だけでは得られないしあわせとか、 時間とか、 人間性とか、 充実感とか、 そういうものがいっぱい詰まっているっていう感じ (P126)

斉藤 − なるほど、 はじめにまず見出しがあって、 結論めいたものがあって、 それを構成する要素を効率よく集めてきて組み立てるっていうんじゃないわけだ。 動き出してみないとわからない、 取材し終わってもなお、 まだまだ底が見えない感じがある・・・・・そういうもんなんですよね、 取材って。 (P127)

(池田さんは取材報告で・・・、こう述べている)
「気分がめげて絶望的になる時は、 取材出会い、 番組に登場してくれた勇気ある市民や子どもたちのことを考える。 苦しい状況のなかでさまざまに闘いながら、 希望を失わないいろいろな国の人びとの顔を思い出す。 彼らがその場で一生懸命生きているのだから、 私もがんばらなくっちゃ、 とおもう。 (P137)

斉藤 −・・・・・。 写真にとって、 心を直接物語る被写体とは何ですか。
英 − それはやはり人間そのものから滲み出てくるものでしょうね。 表情だったり、 体全体に滲み出ているものだったり、 部屋のたたずまいなんかですね。 サインが出ているのを直感でとらえるんです。 (P151)

英 − ・・・・・。いい撮影ができたと手応えがあったときは、 寄り道しないで一目散に帰って、 暗室に飛び込むんです。 どんなに遅く帰りついてもその日のうちに現像して、 確認しないと落ち着かない。 そういうときは夜明けまでやってもくたびれませんよ。
斉藤 − 深夜、現像液のなかからこれだとイメージしていた映像が浮かびあがってきたときは感激でしょうね。 (P159)

斉藤 − ・・・・・。 では、いま生きている自分たちは一所懸命になれないのか、 なれるとしたら、何に対してなれるのか・・・・・。
英 − 写真で言いますと、 撮る前にわかったつもりになって、 自己規制しないことだと思います。 わかったつもりになると現場に出かけなくなってしまう。
斉藤 − それは写真家にとっては致命的ですね。
(P172)

斉藤 − ・・・・・。 ジャーナリズムでは、 売れるものをつくらないとだめなんだという考え方が支配的だし、 それも管理されたジャーナリズムで、 取材や撮影に自分が出せない。 しかし状況のせいにして、 そこでとどまっていては何もうまれませんよね。
英 − ・・・・・。いいものを一所懸命に撮っていれば、 必ずペイすると思っています。 それより過ぎ去っていく時というものの方が大切で、 どんどん取材して、 銀行にお金を預けるよりは、 作品をたくさん貯めることを考える。 (P175)

英 − 日本は写真王国といわれますが、 それはメカの王国であって、・・・ (P175)

斉藤 − 日常にひたりきっていると、 激しい変化や、 その予兆が感じとれません。 アンテナをきちんと張って、 おしきせの情報とは別のところに耳を傾け、 目を向けないとだめとおもうんです。 (P176)

鎌田− 記者としての経験を多く積んだ人が書いたものでしょうし、結構水準は高いと思うんですが・・・・・。なぜつまらないかと言えば、 それは多分に新聞記者的であるからだと思うんです。 なぜその人が、 その原稿を書いたのか、 書いたものとその人との間にどんな関係があるのか、そこのところがよくわからないのです。 (PP..181−182)

鎌田 − ぼくもある編集者に、 鎌田さん、 いまは他人のことに対して、 あまり関心がないんだから、 そんなに人のことを書いても、 あまり読まなんですよ、 なんて言われたことがあります。
斉藤 − ・・・・・。
鎌田 − ・・・・・。 関心を持たなくてよりカラクリとうかしくみにすっかり慣れてしまって、 それに安住しちゃっているんだと思います。 (P192)

鎌田 − ・・・・・。 運動っていうのは、 人間に関心を持ち、 人間のためにはじまったもののはずなんですよね。 (P203)

「 しかし、結局は手練手管ではない。 誠心誠意、 相手を人間として尊重する気持ちに徹して、こちらの人間をさらけ出すしか手はない。 ・・・・・ 」
「 取材という作業とはそういうふうに考えると実に時間をくい、 ムダが多く、 経済合理性と矛盾する非効率的な ” 手作業 ” であり、 最後の最後は記者の人間性にかかっているやっかいな労働だ。 だが、 それだからこそ面白くてやめられないと私には思えるのです 」 (P230)

「 ・・・・・。 考え方が現実的といえば体裁はいいが、 バランス感覚だけ発達したような毒にも薬にもならない報道姿勢が身について、 結局は大勢の風向きを察知しては現実追随を繰り返していくようになる。 ・・・・・。 もし誰かが報道しなかったら永久に隠されてしまったかも知れない事実を暴くことだ。 それだけでなく、 その現象の持っている 『 意味 』 をどれだけ的確に、 鋭くえぐりだして社会に投げかけたかという、 その視点、 掘り下げ方、 問題提起の仕方などがみどころなのだ。 「う〜ん、そうか、そういうことだったのか 」 と読者を思わずうならせるぐらいの奥行きのある、考えさせる記事、 世界観の変更を迫るぐらいの力がある記事が書けたら、これこそ特ダネと言っていいだろう 」
「 記者が一人の人間として、現状肯定的ななまぬるい気分に満足していたり、・・・・・。 組織内での位置にこだわわらない精神的一匹オオカミになることを、 ぜひ若い記者たちにすすめたい 」

本棚に並んでいる斉藤氏の、どの著書を取り上げようかと悩んだが、 やはり自らを語った本書を選び出した。 ジャーナリストとして生きた氏の考え方、取材方法、 人生観がちりばめられている。 被写体と絶えず接する写真の撮影者の立場にも共通するところも多々ある。 ジャーナリストとしての斉藤氏がどのような状況で悩み、 苦しんできたかもわかる。 自己流の取材経験が10年にもならない私が今悩んでいることなど、 まだまだだと感じさせてくれる。 また、現場に足を運ぶことの大切さ、頭でっかちにならないための戒めなど、刺激的な内容が詰まった著作だ。