カメラマン 最前線

”バスレロ”への視点

きたわけではない。学校の写真係を担当 し、学校行事を撮っていた程度であった。 本格的にフォトジャーナリストの勉強をす るために宇田さんは渡米する。
  1990年のことであった。

米国ボストンから   
中米エルサルバドルへ
 米国では、ボストン・ニューイングラン ド・スクール・オブ・フォトグラフィで学 んだ。ボストン大学のジャーナリズム講座 も受講。米国での勉強は大いに役立ったが、 宇田さんにとってさらに幸運だったのは、 担当のインストラクターに恵まれたことだ った。
「”目からうろこ”の毎日でした」
  写真は 4×5 しか使わせてもらえなかっ た。35mmを使うと、すぐにシャッターを切 ってしまう。 「写真を撮るときには、どういう写真のイ メージをもっているか。なぜ、いま自分は この写真を撮ろうとしているのか。観る人 にどういう影響を与えるかを意識しなさい。 ときには構えたカメラをはずさなければい けないこともある…、といったようなこと を徹底的にたたきこまれました」
 そのためにも、安易にシャッターを切っ てしまう35mmよりも4×5の方がいいのだ。 「毎日、印画紙を見なさいと言われました。 これだ!という写真を見つけたら、なぜ、 そう思ったのか考えなさい。そこに自分 が見えてくる、と」
 スクールの日々は、そうして着実に宇田 さんにフォトジャーナリストの自覚を醸成 していった。しかし、宇田さんの外の世界 は、未来のフォトジャーナリストの登場を 待っていてくれているわけではない。外の 世界では、頻繁にデモが行われていた。そ して、宇田さんは、ひとつのデモに引きつ けられた。内戦が続いていたエルサルバド ルの民衆の追悼集会とデモ行進をダウンタ ”ヒト”に惹かれるタイプなのだろう、宇田さんのカメラの先には必ずヒトがいる。  ウンで目撃したのだ。そのときから、宇田  さんの関心は中米に向けられる。
 「90年のときは、大勢の取材陣が来てい  たのに、翌年には2人しか来なかった。こ  れでいいのか、怒りがこみ上げてきました」
 その次の年に、現場にいたのは宇田さん  ひとりだった。時間が経てば人々の関心も  記憶から消え、流されていく。そんなことでいいのだろうか。宇田さんは、自らのカ メラアイ、ジャーナリストの目が風化していくことを戒め、持続的にエルサルバドル を追った。
「最初にグアテマラに入ったときは、正直  いって恐かったですね。2週間スペイン語  の特訓をして、なんとか現在形なら話せる  ようになりました」
  バスで国境を越えたときには、自動小銃  を突きつけられた。ホールドアップをさせられたときから、本当のフォトジャーナリスト宇田有三が生まれたのかもしれない。
「92年は停戦の節目でした。姿を現したゲリラを、市民たちが広場で歓呼の声で迎えるんです。その歴史的瞬間に立ち会っている…。感動しましたね」
  しかしここでも、停戦の祭りだけ取材して多くの取材陣はいなくなってしまう。宇田さんは停戦後3ヶ月間、自分なりの目で取材を続けた。
帰国後、宇田さんは精力的にフォトコンテストに応募し、入賞を重ねる。文部大臣奨励賞(毎日写真コンテスト)も受賞した。写真展も地元神戸を中心に開催。フォトジ ャーナリスト宇田有三の名は、徐々に新聞、雑誌で見られるようになった。
エルサルバドルには94年と96年にも行っている。
「停戦のとき生まれた子を、そのときから現在までずっと追っています。将来的にはエルサルバドルで写真展を開きたいですね」

軍事政権がテーマ      
アジアハイウエーの踏破も・・・
 93年にエルサルバドルから帰国した宇田  さんは、自分のテーマを見つける。選んだ  テーマは軍事政権だった。中米だけでなく  ビルマをはじめとしたアジア地域やアフ

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