もう一つの顔
軍事独裁国家ビルマ (上)

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「アウンサンスーチー氏拘束 」などのニュースが切れ切れ
に伝わってくるものの、いったいなにが起きているのか。
外部からはわかりにくい軍事政権下のビルマ(ミャンマー)。
その実情を把握しようと1年以上にわたって現地に滞在し、
全国を歩いて知った実情を報告する。

「アウンサンスーチーさんの所在が判明。ヤンゴン(ラングーン)市内の病院
に入院」
私はその一報を昨年九月一九日、首都ラングーンの友人宅のNHKの衛星
放送で知った。

スーチー氏(59歳)は一昨年5月、2度目の自宅軟禁から解放されると、自
らが書記長を務めるNLD党(国民民主連盟)の合法的活動として、精力的
に地方都市を遊説していた。

<スーチー氏襲撃と拘束報道されない真相>
事件は昨年5月30日夜、起こった。スーチー氏を含むNLD党員とその支持
者たち約250人は、首都ラングーンから北約650キロメートルのザガイン州
内を移動中だった。そのとき、軍事政権(SPDC=国家平和発展協議会)の
翼賛団体であるUSDA(連邦団結発展協会)の暴徒約4000人〜5000人
に襲撃されたのだ。目撃者証言によると、明らかにスーチー氏に危害を加え
る目的であった。

兵士を鼓舞する鼓笛隊がパレード選手権大会を目指して
練習を繰り返す(2003年1月、首都・ラングーンにて)
この事件での犠牲者は、政府発表では死者四名、負傷者数十名と伝えら
れた。ところが、現場で難を逃れたNLD関係者は、死者(行方不明者を含
めて)は約60人〜80人、負傷者は100人以上だと報告している。事実
究明がほぼ不可能なビルマゆえに、この事件の真相は一年半以上たった
今でも、外部調査による詳細は明らかにされていない。

間一髪、この襲撃から逃れることができたスーチー氏は、近くの町へ逃げ
込んだが拘束された。SPDCはその後、場所を明らかにしないまま、スー
チー氏を「保護のため拘束」という理由で軟禁状態に置いた。

「一時期、インセインの刑務所に収容されていたが、国際的な非難が起きた
ため、今はラングーン近郊の軍の施設に収容されているそうだ」
スーチー氏の所在を突き止めようとしていた私に、現地のメディア関係者は
秘密裡に連絡をくれた。

SPDCによる今回の軟禁措置は、過去2度の場合とは全く異なっている。
これまではいずれも、スーチー氏の所在は明らかにされており、なんとか
外部との接触の方法もあった。だが、今回の軟禁は、約三ヵ月半経っても
居所が分からないままだった。
ビルマ軍政府は今回、どうしてこのような強権的な態度に出たのか。それ
も、前回の軟禁解放からまだ一年しか経っておらず、国際社会もSPDCと
NLDの対話を期待していたところだった。翌6月には、カンボジアのプノン
ペンでASEAN(東南アジア諸国連合)外相会議が開かれることになって
いた時期だった。
軍政が対話路線を否定し、スーチー氏に危害を加えれば、国際社会から
指弾されるのは目に見えていたはず。
実際、内政干渉をしない方針のASEANの会議でさえも、さすがに今回の
事件は目に余ったようだ。外相会議はその公式の声明で、極めて異例な
ことに、アウンサンスーチー氏解放要求が明記したのだ。

入院中のアウンサンスーチー氏の回復を祈り、
小雨降る中、静かにたたずむ民主家運動の
支持者たち。ビルマ国内、しかも首都で公然と
スーチー氏への支持を表明するのは勇気いる
行動である。その後彼らがどのように扱われた
のかは分からない。(2003年9月)     
民間団体だと言われているUSDA(連邦団結発展協会
=右の緑の看板)だが、その看板が警察署(左の青の
看板)と一緒に掲げられているのは、この協会が警察権力
と一体化している証拠である。(首都・ラングーン)