果てのないカレンの武装抵抗

─ ビルマの辺境 ─ 歴史と民族の隙間に生きる人びと
  そんな時だった。1986年から90年代前半まで、KNUの軍事部門
KNLA(カレン民族解放戦線)に義勇兵として参加していたフランス人
のF・ジョンに言われた。
「ボ・ジョー司令官に会わずして、今後のカレンを語ることはできないよ。
KNLAの士官学校を出た唯一の司令官だし、まだ若い。おまえと同じく
らいの年齢のはずだ。今後のカレンを背負う若いリーダーの最有力候補だ。
カレンに見切りをつけるは、彼と会ってからでも遅くないぞ」
 何事も大げさに話をするジョンの話は、すぐに信じられない。知り合い
の元KNLA兵(55)を訪ねた。彼は、筋金入りの元ゲリラ兵士で、
ボ・ジョー司令官に詳しかった。
「そうさな、ボ・ジョーくらいかな、これから期待がもてるのは。ヤツは
まだ若い。滅多に山から下りてこない。他のKNUの幹部連中は山を下り
て、ほとんどタイ側に隠れ拠点を持っている。でも、ヤツはずっと山の中
に籠もってカレンの村人と一緒に生活しているんだ」
 KNLAは、大きく分けて7つの旅団で構成されている。現在の最強旅
団は、最年長74歳のティーマウン司令官率いる第7旅団である。最若年
のボ・ジョー司令官は30代後半。ボ・ジョーの次に若い司令官は、62
歳の第4旅団司令官のオリバー。同じく62歳の第六旅団の司令官ムトー
である。勇敢で、頭の切れると言われるボ・ジョーが、今のカレンの状況、
今後のカレンの状況をどう見ているのか、直接話をしてみたい。私は是非
彼に会っておかねばと思った。
 2000年12月23日、カレン民族解放戦線第5旅団をめざして、タ
イ・ビルマ国境へ向かった。
タイ北部の町メーサリアンにたどり着く。そこから公の交通機関を使い、
さらに奥地へ。名のない村に入る。その町で2泊し、連絡係のカレン人を
待つ。連絡係のカレン人に、タイ語・ビルマ語・カレン語・英語を話す通
訳と4輪駆動車を手配してもらう。

 窓ガラスに黒いシールドを張った4輪駆動車は、ビルマ国境へ向かって
舗装された国道を走る。タイの国境検問所を超え、車がやっと通れるだけ
の未舗装の道へと入る。2時間も走ると、どこをどう走っているのか分か
らない。途中、タイ国境警備隊の交代要員を一名乗せ、さらに奥地に車を
走らせる。
 右手に突然、明るい風景が開けた。サルウィン河にたどり着いたのだ。
サルウィン河は、タイとビルマを分ける自然の国境線である。切り立った
斜面のあちこちには、不法に伐採されたチークの大木がころがっている。
枝が切りとられ、白いペイントで通し番号も振られている。
 河沿いに監視小屋が並んで3つ建つ。そのうち一つに入って、ビルマ側
に渡るボートを待つ。だが、なにやら雰囲気がおかしい。国境を警戒する
タイの情報部員に見つかってしまった。そのタイの情報部員は私の前には
姿を見せない。隣の小屋に入ったまま、通訳を通して私の身元を探ってい
る。案内役のカレン人通訳では、情報部員を説得して私がビルマ側に渡る
理由を納得させられないようだ。
 ビルマ側のカレン支配区に無線を飛ばした。無線連絡を受けて半時間後
に姿を現したのは、サルウィン河周辺を管轄するKNLA将校ド・ウイン
氏であった。彼の一言は、タイの情報部員を納得させた。
「この日本人は、カレンの新年祭取材のため、ちょっとだけビルマ側に渡
るんだ、何も問題ない」