果てのないカレンの武装抵抗

─ ビルマの辺境 ─ 歴史と民族の隙間に生きる人びと
 他の民族集団に比べ、どうしてカレンだけが強固な反政府抵抗を続けて
これたののだろうか。英国植民地の末期、英国+カレン人に対して、日本
+ビルマ人という勢力図式ができあがっていた。カレン人は英国の指導の
もと、民族団体としてはかなり組織化が進んでいた。独立後、ビルマ政府
に反旗を翻すときのカレン人の結束は、単なるゲリラ組織と言うより、政
務機関をいくつももった、国家にかなり近い組織体を作り上げることに成
功していた。それにカレン人は、ビルマにおける自由を求める闘争の先駆
者でもあった。1881年、ビルマを含む英領インドにおいて最初の政治
組織(KNA)を組織したのはカレン人である。これは、インド国民会議
(INC)結成の4年も前のことであった。

 1993年5月半ば、雨季はすぐ目の前に迫っていた。私はカレンの地、
KNUの本拠地コートレイ国(kawthlei=カレン語で「花咲く大地」「平
和な大地」の意)の中心地、マナプロウ総司令部に入る計画をしていた。
マナプロウは、ビルマ軍事政権に抵抗する辺境の諸民族の連合組織・国民
民主戦線(NDF)の司令部でもあった。また、1988年に起きた民主
化デモの弾圧から逃れてきたビルマ人たちとの結集団体・ビルマ民主戦線
(DAB)の総司令部も兼ねていた。
 マナプロウ入りしたことのある日本人記者の紹介状を携えた私は、タイ
第2の都市チェンマイと向かった。名前と住所、電話番号だけを頼りに、
紹介された人を訪ねていった。だが、教えられた人物はもはや、その住所
には住んでいなかった。
 とりあえず、できるだけビルマに近い国境の町メーサリアンへと移るこ
とにした。しかし、そこでどうにかなる当てなど全くなかった。時間つぶ
しに、また、かすかな希望を持って、サルウィン河へと向かってみること
にした。メーサリアンからピックアップトラックの後部を改造したバスで
約2時間、サルウィン河の町メーサムレップにたどり着いた。河の向こう
はもうビルマ領だ。しかし、タイ語もビルマ語もできない私は途方に暮れ
た。
 3日間、当てもなくただただ、メーサリアンとメーサムリップを往復す
る日を繰り返していた。4日目の朝、いつものようにピックアップトラッ
クの後部に乗り込むと、若いカップルと一緒になった。何を思ったのか、
私は英語で話しかけてみた。
「どこへいくのですか。私はカレン人を探して、メーサム・レップまでい
くんだけど」
若い男が何のてらいもなく答えてくれた。
「どこから来たのか。ふ〜ん、日本人か。私たちはカレン人だよ。これか
らこの娘をマナプロウに送り届けるんだ。彼女はそこで看護学校に通うこ
とになってるんだ」
 マナプロウ。
 それこそが私が行きたいと思っていたKNUの本拠地ではないか。見も
知らぬ外国人に簡単にそんなことを喋ってもいいのか。ちょっと不審に思
った。だがその時は、彼らの行動方が気になっていた。
 メーサムレップに到着した。河岸まで行く彼らについて行き、ビルマ側
に渡るボートのすぐ側まで一緒に行動した。外国人である私の姿を見ても、
周りの誰も不審がっている様子はない。ボートの乗り込んだ2人に、「気
をつけて」と手を振って、見送った。
 翌朝、私はメーサリアンのホテルを引き払う。タイに持ってきた全ての
荷物を持った私は、前日若いカップルがボートに乗り込んだ場所に立った。
「マナプロウに行きたい」。私はボートの運転手にそれだけ告げた。
 後日判明したのだが、当時、メーサムレップはKNUと地元タイ警察・
国境警備軍の友好関係の下にあった。KNUに支援する外国人がメーサム
レップをうろつくことはそう珍しいことではなかった。
 マナプロウ到着後、外国人慣れ、取材慣れしているKNUの広報官に迎
え入れられた。「どうぞ、取材はご自由に」と。
「反政府ゲリラ拠点への潜入!」。映画のような冒険談などではなかった。
ちょっと拍子抜けする。