(アウンサンスーチー)
インタビュー
1996年3月5日 午前10:00〜11:00


『毎日国際ボランティア大学スタディツアー 報告書』 からの 引用
−ビルマ・タイ −

1996.3.2 〜 3.9
Q 毎日の生活はいかがお過ごしですか。ご家族との連絡はどうなっていますか。

A オフィスは9時に開けます。だいたい7時まで開けていますが、仕事の時間を決めるようにしようとしているところです。夕方早目に終えられれば、私はもっと本を読んだり書いたりする時間がもてます。それと、面会の時間を少なくして、オフィスワークをもっとできるように心掛けています。家族は週に一回電話をしてきます。去年7月までは電話をかけてくることもできませんでしたから、今はコミュニケーションがよくなったと言えます。



Q NLDとの連絡はいかがですか。

A NLDとはいつもコンタクトをとっています。仕事の80%はNLDのメンバーとしています。残りの20%がそれ以外の人と仕事です。もちろん北の農村地帯との連絡は容易でないこともあります。電話が通じなかったり、郵便も当てにならないこともあり、かなり時間がかかる場合もありますが、コンタクトは常にとっています。



Q 生活費や政治献金の調達はどのようにしておられますか。

A 執筆活動で生活は支えています。政治献金に関しては、多くの人々から自発的な献金を得ています。ビルマ国内の人々からです。外国からの援助は受けません。



Q 「ミャンマー観光年」をどのように考えておられますか。

A 「ミャンマー観光年」は人々とあまり関係のないことだと思います。ビルマの人々にお金が落ちるという人もいますが、実際利益を得るのは既にお金を十分持っている人たちであって、貧しい人達ではありません。



Q 日本でも学ぶ機会を持たれましたが、それはスーチーさんの考えや展望に何らかの影響を与えていますか。

A 人は誰でも経験を通して展望を持つものです。ですから私の日本での経験は今の私の考えにも影響を与えているでしょう。確かにいろいろ学ぶ事があったと思います。私にはとてもユニークな経験でした―視野が広がりました。とにかく日本は私にとって新しい経験でした。

日本はまさしく「極東」で、一番遠いところにあったのです。アジアの先進国として関心を持ちました。近代においてアジアの国家がどのように発展してきたかをみるのは興味深いものがありました。特にこれといったことは今思いつきませんが、京都の人々の友情は忘れられません。

日本が急速に発展してきたにも拘わらず、京都の人々はとても自然なままでいます。東京もエキサイティングで悪くはないのですが、私にとっていっそう印象深いのは、日本で学んだことよりも、インドと日本の違いです。

日本で過ごしてから、私はインドへ行ったのですが、日本滞在中には本当に貧しい人というのを見たことがありませんでした。一度だけみずぼらしい様子の人を駅で見かけたことがありましたが、その人は酔っ払いだったと思います。酔っ払っていたからみずぼらしく見えたのでしょう。

日本にいる間中私の良心が痛むということはそんなにありませんでした。周りに貧しい人がいなかったからです。私が日本でいい食事をし、いい服を着、いい家で暮らしていても気にはなりませんでした。

でもインドへ行くと私の周りに貧しい人がいて、良心が痛むのです。ですから、こんなにいいものを食べて、こんなにいい服を着ていていいのか、私がこの人達にできることはないのか、と考えてしまいます。

人は豊かな国にいる時より、貧しい国にいる時の方が精神的なジレンマや義務や責任を覚えます。日本では日本人に対して責任を感じることがありませんでした。

日本人は私の助けを必要とはしていません。私が何かをしなければならないということはないのです。私は私の生活を営んでいればいいのです。

でもとてもたくさんの貧しい人のいるインドでは、一人の人間として私は何ができるのか、と考えてしまいます。何ができるのか、どこまでしたらいいのか、こういったことを無視して自分の生活をしていていいのか、といったジレンマに陥ってしまいます。

在日コリアンなどの日本におけるマイノリティのことは知っていますが、私の経験としてはないのです。京都が生活の中心でしたし、東京にちょっと行っただけですから...部落差別のことも聞いています。

インドでは貧困について聞くだけでなく、実際目の前に貧しい人がいるのです。ですから責任を覚えるのです。人は実際に起こっていることを自分で見ないと、本当に起こっていることと考えないものなのです。たとえ知っていたとしてもたいしたこととは思わないのです。

ですから、皆さんが、例えば、ビルマへ来て、当局が見てもらいたがっているホテルとか観光スポットなどを見るだけでは、ビルマの人々が何で苦しんでいるかは判らないでしょうし、その人達に心を向けることはできないでしょう。

貧しい人々が、どんな抑圧の下で、いかなる暮らしをしているかを見ていただかなければ、人々に向き合うことはできないでしょう。

日本の水俣のことも読んだことがあります。日本は自分たちの問題を自分たちで何とかやっていけます。この企業は裁判にかけられているのですが、被害者に対して何かをすることができる立場にあります。

外国人の私には、このことで責任を感じなければならないということはないのです。日本と違って、インドのような国には私は何らかの責任を覚えてしまいます。とても大きなそして貧困を抱えた国ですが、私はインドに敬服しています。インドの人々は民主主義が機能してきました。そのことだけでも、私はインドを尊敬します。

いろいろな意味で偉大さということを語れると思いますが、インドは豊かな国ではありませんが、偉大な国です。



Q 先程外国からの援助を受けないとおっしゃいましたが、NGOからも受けとらないのですか。最近、看護学校建設のために日本のODAが使われましたが、ODAに関してはどのように考えておられますか。

A 政党は外国からの援助を受けないという規則になっています。ですからNGOの援助に関しても同じです。

ODAに関しては、既に日本の他のジャーナリストとも話したことですが、看護大学のためのODAということで言えば、ビルマのような国では、広汎にものを見ていくようにしなければなりません。看護大学なのだからあらゆる人々にとって利益になるだろう、ということだけでは不十分です。

先ず第一に「建設」の問題があります。誰が契約を結ぶのかを見極めておかねばなりません。これはとても利益の上がるものです。現状では、この種の契約は万人に平等に開かれたものではありません。契約に係わるのは特権をもっていて、どうしたらよいか判っている人達だけなのです。

次に、大学ができあがった時に、誰がスタッフの選考をするのでしょうか。この種の大学としてはこの国で唯一のものですから、そのスタッフはとても高い地位を得ることになります。結果としての平等と公正が保証されている民主的システムの下でなければ、これは権力の地位にある人の権限の問題として、誰をどこへ配置するかということになってしまいます。

入学する学生の場合も同じです。自由で公正な競争が保障される民主的なシステムの下でなければ、特権をもった人々にチャンスが巡っていってしまいます。

そして、そこを卒業した人達はビルマの貧しい人達のために働くのでしょうか。それともお金がたくさん貰えるように施設の療養所で働くのでしょうか。ことによると、外国へ出て仕事をしようとするかもしれません。

こうしたプロジェクトにお金をつぎ込む前には、このようにいろいろな点を見ていかなればならないのです。

日本政府が最近基金を出したいと言っている「ミャンマー母子福祉協会」は、表向きにはNGOとされていますが、実際は政府関係者が運営をしています。



Q ビルマのために日本人が何をすることを望みますか。

A 先ず第一に、実情を知ってもらいたいと思います。

例えば、政府からの援助を引き出してビルマでもっとビジネスをしたいと考えている人達は、ビルマの現状はとてもよく分かっているという風に言います。そして自分たちは田舎へ行ってもその現状を調べてきているから、田舎のこともよく分かっているのだ、と言います。

でも、こうした人達が田舎へ行く時には、政府がすべてをアレンジして、それに乗って田舎へ行くだけですから、政府が見て欲しくないと思っていることを見ることはあり得ないのです。

このようなビジネス・トリップでいくつかの選ばれた所を見るだけで、分かったかのような口を利くのはとても奇妙なことだと思います。ですから、先ず、とにかくビルマで何が起きているのかを知ってもらいたいのです。

政府の発行している新聞をよく読んでもらえれば、現在の政府の姿勢がよく分かると思います。そうすれば、このような政府がどこまでこの国のためになっているかということも、分かっていただけるでしょう。もちろん両面から見ていただかなくてはなりませんが、人々の気持ちがどんなものであるかを外国人に知ってもらうのは易しくないかもしれません。

一般の人々の出会いはあまりないかもしれませんし、もしチャンスがあったとしても、もちろん言葉の問題もあります。すべてのビルマ人が英語を話したり日本語を話したりする訳ではありません。またビルマ語を話す日本人も少ないはずです。

とにかく、ビルマで実際何が起こっているかを知るように努めてください。

―人々の置かれている状況や気持ちがどんなものであるのか。そして政府の態度と実情を比べてみてください。そうすればビルマの状況がいかに悲惨なものであるか判っていただけるでしょう。



Q YMCAが行っているアウトリーチ・プログラムをラインタヤで見たのですが、あそこはマイノリティー・グループの典型でしょうか。

A ラインタヤは民族的マイノリティの集落ではありません。民族的マイノリティもいるかもしれませんが、ほとんどビルマ人です。郊外にできた新開地です。

ラインタヤでは、そんなに悪い生活をしている訳ではない人もいますが、確かにたくさんの貧しい人がいます。ほとんどの人達がラングーンに仕事を持っていて、長距離を通勤しています。



Q 88年以前はラングーンの下町やスラムに暮らしていた人達が、そういった人達が、そういった所に強制移住させられたのですね。

A ラインタヤだけが一つの例ではありません。他にもいくつかの新開地があります。整った環境であれば新開地も大問題にはなりませんが、多くの場合、ほんの小さな土地しか与えられず、そこですべてを自力で始めなければならなかったのです。とても大変なことでした。

また仕事がラングーンの街の中という人には、通勤と言う時間とお金の問題がのしかかります。とにかく不便です。こうして観光客目当てに市内を浄化しているのです。



Q 女性の役割をどうお考えですか。

A ビルマの女性は他のアジア諸国と比較しますと、昔から自立しています。

しかしだからと言って、男性優位の社会であるということに変わりはありません。これは世界的に言えることだと思います。

日本の女性と比べても、多分、ビルマの方が自立の伝統をもっているのではないでしょうか。しかし、責任のある地位を与えられている女性の公務員は非常に少ないのです。これは女性の能力が劣っているからではありません。大学や医学校を見れば、女性が劣っているのではないことは明白です。

日本も同じでしょう。東京でも京都でも女子学生の数は増え続けているでしょう。しかし日本でも、責任ある地位の女性は少ないでしょう。前回の選挙では400議席のうち女性が14人―全員NLDのメンバーです。―選ばれましたが、これでもまだ少ないと思います。

北京での世界女性会議にはメッセージを送りましたので、特に付け加えることはありません。



Q わたしはあなたの暮らしておられた修道院にあるセミナーハウスで所長をしております。また関西NGO協議会の議長も務めています。89、91、93とビルマに来て今回4度目ですが、このところの変わりように驚いています。かつて政府の立てたプラン通りに回らなければならず、行動の自由は全くありませんでした。でも学ぶことはたくさんありました。民主主義、ことにあなたが言っておられる民衆の参加(People’s Participatory Planning Process)ということに大いに関心があります。

A まさにそのことです。人々の参加がなくてはならないのですが、ものごとの判断を下す、実施をするという段階での人々の参加が全く不十分なのです。

人々の参加なしに民主主義はありえません。政治のシステムとして民主主義が健全に機能しているということなのです。



Q戦争中に日本がビルマに対してとった姿勢、つまりアウンサン将軍に独立を認めず、反日行動に走らせた事実を、今日の教訓にできますか。

A 日本がビルマに入って、日本は確かにビルマの独立を宣言しましたが、それは本物ではありませんでした。教訓とはそのことです。

自由を与えると言っておいて、自由を奪ってしまったのです。実際わたしには民主的権利が与えられていないのですが、ビルマの人々に民主的権利を与えられているということは言えないのです。口先だけでは十分ではないのです。意味するところを行動で示さなくてはいけません。

現体制は民主主義を導入すると言っていますが、ビルマを民主主義の国にする何のサインも示していません。経済開放を進めましたが、本当の開放とは言えません。

特権をもっている人達と、そうでない人達との間に明らかな差があり、その政策の枠内にいる人とそうでない人達は全く不平等なのです。この不平等がなくならない限り、本当の開放経済とは言えません。

部分開放あるいは一部の人達だけにより開放された経済としか言いようがありません。第二次大戦で日本とビルマの間にあったことから学ぶ教訓というのは、口先だけの約束では不十分で、行動で示さなくてはいけない、ということです。約束をしておいてそれを守らないというのはとても危険です。