本多 勝一 「 急死した友へ 」
( 光文社 『 母が泣いた日』 1999年より)


  「 ・・・、曾我君が死んでからは、だれと別れるときも、この 『 そいじゃ、またな 』 が永遠の別れになるかもしれないと思うようになりました。
 こうしたことは、理屈としては自明であり、当然きわまる話ですが、たいていの現象の 『 理解 』 がそうであるように、その自明の理屈が真に自己の問題として迫ってくるためには、多くの人は体験を必要とするようであります。ベトナム戦争や黒人問題を取材したとき深く考えさせられたことのひとつは、私がいかに精魂を傾けてルポルタージュを書いたとしても、あのベトナム人や黒人のたちの激しい怒り、被侵略者・被抑圧者の怒り、それがいかに当然の怒りかを知った私自身の彼らの敵に対する怒り、そうしたものは、ついに一般的な日本人には伝え得ないのではないかという疑問でした。ベトナムと同じようにB52で何年間も無差別爆撃され、ソンミ事件のような虐殺を、日本人もされてみないと、また黒人のように、黄色いサルとしての日本人も徹底的に差別されてみないと、結局はだめなのではないか。そう思いたくない気持ちが一方では強いにもかかわらず、自らの無力を知れば知るほど、こんな暗い気持ちに襲われます。
 友だちと 『 そいじゃあ、またな 』 と別れるとき、家族に 『 行ってくるよ 』 と朝別れるとき、ひどく虚無的になる瞬間が多くなったのは、明らかに曾我君の死後であり、その7カ月後に死んだ父の死によって、一層これは助長されたようです。曾我君と同様に、やはり全く突然の死だった父の場合は、その五日前に父と別れるとき、そいじゃあ、またな、とも何とも言葉さえ交わさなかった。振返りもしませんでした。ただ振返らなかったな、という意識はあります。どうせ一カ月だらずでまた年末に帰省して逢えるんだ。そう思ってこの小さな呵責を打ち消しました。曾我君と別れたときと同じように、ただ単に別れてタクシーのドアを閉めただけです。いつかは自分もまた、あのように消えるのだ。明日かもしれないし、一〇年後かもしれない。これまでに見たたくさんの映画の中で、最も強い影響を受けたモノを、もし一本だけ挙げよ、という乱暴な質問を受けたら、私は学生時代に見た黒澤明の 『 生きる 』 だと答えるでしょうが、あのとき受けた感銘を、曾我君の死は、なぜが改めて生々しく思い起こさせました。そしてあの渡辺先生が・・・語った次のような言葉も・・・
『 いつ、どのような瞬間に死を迎えても、常にその人にとってそれが最高のとき、つまり・・・。ただ、それまでに正しいと思って進んでいた道が、まちがいであったと知ったときには、いつでもやめて道を進みなおすことだ。・・・方法としての道は変わっても、人間としての道は一貫しているのだ 』 (PP. 88−90 )

多くの著作のある本多氏のルポルタージュやエッセイから引用したい箇所はたくさんある。今回は、あえてこの 『 母が泣いた日 』 を取り上げた。最新刊 (1999年11月現在 ) であり、私も個人的に心打たれた黒澤監督の映画 『 生きる 』 について言及していたからである。
また、これまで多くの取材・発表を経てきた氏でさえ、自らの無力を感じたことを吐露している部分を読んだからである。
伝えたいのに伝わらない気持ち、表現したいのに自らの力不足のために表現しきれないいらだたしさ。誰もが迷いながらも取材し・報告活動を続けているんだ、そう改めて思い知らされた。 どこまでいっても、どんな取材や撮影をしても、この思いはなくならないだろう。
ただ、やめることはいつでも出来る。続けることの難しさ、その難しさに挑戦する気力を、氏の著作はいつも与えてくれる。