軍の支配するビルマ
─ 民主化への兆しは見えず −

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全国紙の記者曰く、「ご承知の通り、ミャンマーは新聞記者
にとって、 アジアで最も取材しづらい国の一つです。それ故、
なかなか訪ねる 機会がありませんでした。1年間も継続して
取材できるのは羨ましい 限りです。」

そのビルマに1年間、時には地方に潜入という形で、7州
7管区のビルマ全土のうち、6州7管区を訪問・取材。
その一環として、国内避難民を世界で初めて取材。

タイの英字紙バンコクポストに一面のフォトルポを掲載。
'Perspective Section', June 22nd'

< スーチー氏への嫌がらせ判決 >

「スーチー・・・」
思いがけない名前が突然、耳に入ってきた。今年2月、ビルマの首都
ラングーン(ヤンゴン)、下町にある友人の事務所に遊びに行っていた
ときのこと。 声の方向を振り向く。 事務所内でひそひそ話をしていた
ビルマ人4名は、さらに声の調子を落とした。アンサンスーチー氏の身
に何かあったのだろうか。目の前にいたビルマ人の友人Sに、「何か
あったのか?」って尋ねてみる。
「なんでもない」
いつもは笑顔で陽気な彼女も、素っ気なく答えを返してきた。なんか
よそよそしい。そのことが気になり、話を続けようとしても、「それ以上、
質問しないで」。そんな態度だった。政治の話はビルマ人同士でも危険
な題材。まして、外国人の前ではタブーなのか。
その日の夕方、定期的に情報交換をしているビルマ人のKH(35)から
電話があった。
「ちょっと会いたい」
電話では短いメッセージの交換だけ。すぐに待ち合わせの場所を取り
決める。彼とは何度も会っているが、安全上の理由から同じ場所で
会ったことはない。数時間後、彼から早速、その日のスーチー氏の
出来事を聞いた。

裁判所で一つの判決が言い渡された。スーチー氏の家の所有権を巡り、
氏と従弟との間にトラブルがあった。従弟がスーチー氏に暴力を振るい、
裁判沙汰までなった。KHから電話があったのは、そのトラブルに判決が
下りた日だった。

判決は、従弟側に1000K(チャット=ビルマの貨幣単位)の罰金、もしく
は拘留という結果だった。しかし、被害者であるスーチー側に対しても
500 Kを払うか、あるいは1週間の拘留か、という判決だった。KHに
よると、この両成敗的な判決は、軍政権(SPDC=国家平和発展協議会)
の裁判所への圧力による、スーチー氏に対する嫌がらせだそうだ。

裁判そのものが公平でないと主張するスーチー氏側は、500Kを払うより
も1週間の拘留を選んだ。現地で500Kというのは、町の食堂で、焼きめし
を食べるくらいの額である。判事の方も、まあこのくらいならスーチー氏は
払うだろうと思ったようだ。

しかし、スーチー氏は、刑の量刑よりも裁判のやり方に異議を唱えたのだ。
スーチー氏が拘留されることになれば、それは国際社会にまた大きな反響
を与える。

スーチー氏は昨年5月、2度目の自宅軟禁から解放されたばかり。彼女は
自由の身になって以来、各地方都市に作られたNLD(国民民主連盟・
スーチー氏は書記長)のオフィスを精力的に訪問していた。

国内外共に、軍政と民主化勢力との対話を感じ始めていた時期だ。そんな
ときにこの判決。和平の雪解け機運に水を差すかも知れない。裁判所は
困った。スーチー氏を拘留してしまうと、ビルマ国内の司法制度の不公正さ
を指摘されるのは目に見えている。

拘留覚悟でスーチー氏は裁判所に立てこもるような形になった。TVや
新聞、ラジオで速報されなくとも、スーチー氏の動向は人びとの口から口へ
噂としてすぐに広まる。裁判所の外では人びと集まり始めていた。夕方4時
過ぎ、裁判所側は結局、「超法規措置」でスーチー氏の無条件での帰宅を
許可した。この時期はまだ、5月末に起こる「血の日曜日事件」の兆しなど
全くなかった。

民主化のシンボルである 「闘う孔雀(くじゃく」
(NLD=国民民主連盟の党旗でもある)の入れ墨
を入れた男性。顔を出さないとの約束で写真撮影
に同意してくれた。(2003年2月)
小雨が降る中、アウンサンスーチー氏のいち
早い回復を願い、病院前で静かにプラカードを
掲げるNLDの党員たち。(2003年9月)