− 異国に生まれ育って −
あるカレン難民女性の生き方

私の見た90年代の戦争 その2
 ビルマの現状が報道されるとき、それは現在の軍事政権に対し、非暴力の民主化運動を続けるアウンサンスーチー氏が話題の中心で、密林地帯で武装抵抗を続けている「民族集団」の存在に触れられることはあまりない。
 数百キロに及ぶタイ・ビルマ(ミャンマー)国境には、およそ10カ所のカレン人難民キャンプが点在する。そこには、半世紀以上に及ぶ内戦やビルマ政府軍による迫害から逃れてきた約10万人のカレン人が不自由な生活を強いられている。
  難民キャンプには、自治権獲得のため徹底抗戦を続けるカレン民族同盟(KNU)の支持者もいれば、長期にわたる戦争のため、単純にもう戦争はイヤだという者もいる。また、祖国への帰還を夢見る旧世代もいれば、タイ側の難民キャンプで生まれ育ち、ビルマに対してそれほど愛着を持っていない若い世代もいる。北の難民キャンプで知り合ったカレン女性・タエポー(23歳)も後者のひとりであった。

 寒さで身を震わせ、何度も目を覚ました。1月末のタイ西北部の密林地帯。日中の気温は35度を超えるが、深夜から夜明けにかけて、急激に冷え込む。厚手の防寒用ジャケットを身につけ、毛布を二枚重ねてなんとか寒さをしのぐ。それでも身体が冷えて眠られない。
  交通の便が良く、外国からの援助物資が届きやすい国道沿いの難民キャンプが多い中、タエポー一家の住むキャンプは、雨季の半年 間、外の世界から遮断される山奥にある。タイ側の難民キャンプで生まれ育ったタエポーは、ビルマ・カレン州に足を踏み入れたことはなく、3世代も続く民族闘争を完全に理解することはできない。過酷なジャングルの中で戦闘を続けてきた父親(58)は、ビルマ人に対しての憎悪を隠そうとしない。
 「カレンの伝統文化を守るためには戦い続けなければならない。カレンの土地の開放を」「ビルマ人は全く信用ならない。これまでのカレン人に対する抑圧の歴史が証明しているじゃないか」。
  自らの厳しい歴史を、すごい剣幕で、私に話す父親。「じゃあ、どうすればいいのだ。現状のままでいいのか」と、私は答えのない質問を彼に突きつける。
 「お父さんはビルマ人のすべてを否定してしまう。私はビルマの軍隊や兵士は嫌いだが、村に住む、普通のビルマ人とはうまくやっていける。ビルマ人であろうと、カレン人であろうと、私は戦争は嫌いだ」。タエポーはそう言う。
  彼女には、封建的なカレン社会に嫌気を感じてキャンプを飛び出した2歳年上の姉がいる。今は英国人と結婚して、タイの首都バンコクに住む。その姉が私によく話してくれた。
 「ビルマ軍政府に対して抵抗運動を続けているKNUも結局、男性中心の世界だ。カレンの男たちは、少数民族による会議の中でたびたび、ビルマ軍事政権の人権侵害や民族間の不平等政策を非難している。でも、彼らの理想論は会議の中だけ。カレン男性のいう平等は、会議が終われは、それでおしまい。私たちカレン自身の家庭内における男女の不平等はほおっておかれたままだ。女だからというだけで、服装や恋愛も、行動も自由にならない。また、指導部にいるからと言って、そうでない人を差別する。平等なんてどこにある?」
  そんな姉の影響を強く受けているタエポーは、自分なりの理想の家庭生活を考えている。「私は自分の意志が尊重される結婚生活がしたい。男性と女性は平等な関係でありたい。それが、2人の生活の質を高めるから」
「でもこの家では、カレンの伝統通り、お父さんは家の中で威張っているのだろう」。  私がそう言うと、彼女はただ微笑むだけだった。そばにいた母親ミャイポー(50)は、声を上げて大きく笑った。娘のしつけには厳しい母親だ。
  「タイに住みたければ住めばいい。でも、私は一刻も早くビルマに戻りたい。タイには住めない」。
  キャンプ内の女性のリーダー役を努める活発な女性だが、決して出しゃばるような真似はしない。

 タエポーといろいろな話をしたが、決して話題にできないことがあった。それは、彼女自身の夢を語ることだった。姉のように危険を冒して難民キャンプから抜け出す以外に、タエポーたちには将来の道が開かれていない。生まれて以来ずっと、紛争の影響の下で暮らしてきた彼女に、何を聞いたとしても、その答えはむなしく響く。
 ビルマ国内での生活を体験してきた親の世代は、再び故郷での暮しを夢見て、今の難民生活の厳しさに耐えることができる。では、彼女たちのように異国の難民キャンプで生まれ育った者は、何にすがれば苦境を乗り切ることができるのだろうか。
 彼女を撮影し続けていつの間にか6年間たった。少女から大人の女性へと変わったタエポー。フィルムには、ぼんやりと何かを見つめている姿が多い。彼女の視線の先にはいったい何が捉えられているのだろうか。
  自由恋愛をして結婚した姉や妹とは異なり、タエポーは自分の結婚相手を母親に決められた。親の家のすぐ横に2人の新居を構えたタエポー。子どもに乳をやりながら、昔ながらの癖で今また、ぼんやりと何かを見つめている。
 この世に生を受けるとき、誰もが時代・地域・性・民族・国籍を選ぶことはできない。彼女たちの発する一言ひとことからそのことにあらためて気づかされた。 常に戦争と隣り合わせの生活。個人をしばりつける様々な制約がここでは、はっきりと見える。
  「非常事態だから、戦争中だから…云々」。いろんな理由で、どれだけ一人ひとりの尊厳が踏みにじられてきたのだろうか。 一方で、選択肢があるがゆえにストレスが多い、我々の暮らしもある。何が同じで、どう違うのか。タエポーの視線の先にその答えを求める自分の姿に気づいた。
タエポーとはカレン語で生姜(タエ)の花(ポー)を意味する。結婚を4ヶ月後に控え、未婚女性をあらわす白い民族衣装「シモア」を身につけたタエポー。
山奥の難民キャンプでは子どもも貴重な働き手。雨季に備え薪を運ぶ女の子。隣近所の助け合いも当たり前。この女の子の家は子沢山。そのせいか、よく タエポーの家にご飯を食べに来ていた。
子供が産まれて大人っぽくなったタエポー。夫(右)は現金収入を求めて、危険を冒し てタイの首都バンコクに出かけていく。違法労働者に対する取り締まりが厳しいタイ・ビルマ国境の検問で摘発されると、夫の身はどうなるか分からない。