トルコ大地震

−悲しみと怒りの街を歩く−
トルコに続き台湾でも9月21日に大地震が発生した。地球上の都市で発生する大惨事は、神戸の記憶を鮮明にもつ私たちにとって他人事とは思えない。トルコ大地震発生直後に震源地近くヤロバ市に入った筆者に2回にわたってレポートしていただく。(編集部)

 救助隊員の一人がコンクリート片を砕き、瓦礫の山に入り込んだ。
「あぶない。余震がくればひとたまりもない」。手作業で救助活動を続けていた50人の視線が一点に注がれる。
 瓦礫の下に埋まった家族や友人を救おうと集まったトルコの人たちは、無言で救助活動を見守る。上気だった彼らの顔は汗と土埃にまみれている。出動を要請したトルコ軍は今回もやってこなかった。外国からの救助隊が、進まぬ救出活動の最後の頼みだった。
 生存者は、まだいるはず。ぐずぐずしていられない。時間との戦いだ。救助隊や重機器を待つ光景が、あちらこちらで見られる。いったん救出活動にはいると、作業は5時間以上も続くこともある。
 8月17日午前3
時1分、トルコ西部が45秒間、激しく揺れた。この地震による犠牲者の数は9月17日現在、約1万5千人。最終的に3万人以上に達する可能性もある。地震発生から3日目。生存者の救出にあきらめの声が出始める頃、震源地イズミット市から西へ約60kmのヤロバ市へ入った。
 かつてはおしゃれな高層住宅だったであろう建物は今、コンクリート片の瓦礫の山と化している。あたり一帯の建物が崩れ落ちた地域で、まともに残っているのは建築業者の建物という場所もあった。
興奮状態が収まっていない被災者たちも多い。16歳の息子を失った女性は、私に喰ってかからんばかりに訴えた。「あの建築業者が造った建物が倒れた。神の罰を!みんなに知らせてやってくれ。あの業者の名前を・・・」
 興奮のあまり声が出なくなった彼女の目に涙が溢れ、頬をつたう。
 トルコ政府関係の建築技師(イスタンブール在住)は、「犠牲者の多くは、倒壊した建物の下敷きになった。これは、粗悪な材質の建築資材を使って手抜き工事をした業者と、違法な建築を見逃してきた市の責任だ」と私に言い切った。
 悲しみと興奮、怒りが渦巻く瓦礫の街を歩いた。 (つづく)

震源地イズミットに通じる幹線道路。トルコ地震の犠牲者のほとんどは倒壊した建物の下敷きとなった。
息子を亡くした悲しみと怒りを私にぶつけるジェイラン・ケントラさん。 建物の倒壊が最も激しかったアドパザル市。再会を喜び合う被災者。
救助犬・ドイルとのコンビで生存者の確認をする松崎正人さん。(ジャパンレスキュー・大阪)