虐殺の証拠を掘り起こし
死者の魂を弔う

─ グアテマラ内戦の記憶 (2) ─
発掘現場の先住民
思いがけない異文化交流

 首都グアテマラシティから東北へ80キロメートル、チマルテナンゴ県コマラパの郊外。遺骨の発掘作業が始まったのは五月初めだった。コマラパの発掘現場の一つは、「コナビグア」の創設者の一人、ロサリーナの父親の遺体を捜す場所でもあった。
  「コナビグア」はこれまで、さまざまな場所で遺骨の発掘を主導してきた。今年になってやっと、ロサリーナは自分の父親の遺体を捜す機会に恵まれた。82年7月5日に父が連れ去られてから二二年が経っていた。彼女は近日中に、「コナビグア」の代表を辞め、内戦中の被害者救済のために設置された「国家賠償委員会」の議長に就任する。そんな多忙な日をぬって、できるだけ発掘現場を訪れていた。
  遺骨発掘は原則として、それぞれの村人がボランティアで行なうことになっている。だが誰もが仕事(多くは農業)を持っている。それゆえ人手が足りなくなる。そんなときは、近くの村から応援に駆けつける。この日は、遠くキチェからも助っ人がやって来ていた。
  「キチェ語で、鍬やツルハシはなんと言うのですか」
  「鍬はスロム、ツルハシはコートッヴァル」
  すると、ソロラから華やかな民族衣装を身に纏って来ていた男が横から口を出した。
  「そんな風に言うのか。知らなかった。カクチケ語では、スペイン語そのままで『アサドン』、『パラ』って言うんだよ」
  自らの土地や固有の文化を頑なに守ろうとする先住民のインディヘナたちの異文化交流が、遺骨発掘で進むのも皮肉なものだ。


埋められ時の状態で掘り起こされた遺骨。
チマルテナンゴ県・パチャイ村、2004年7月

遺骨発掘の穴は、深いところで2.5mにも及ぶ。
この日は、11体が掘り出された。

チマルテナンゴ県・パチャイ村、2004年7月


虐殺者と遺族が
同居する村で

 遺骨の発掘作業は毎日、朝九時から夕方4時ごろまで。昼休みの食事は、数人のインディヘナの女性たちが、週一回の持ち回りで用意する。
 「お昼をどうぞ」
  発掘の現場にいる人には、誰にでも、分け隔てなく昼食がふるまわれる。軍部とつながりのある地主に雇われ、コンクリートの壁を作っている作業員の男たちにも声がかけらる。壁を作っている作業員たちは、実は発掘をじゃまする側に立つ。発掘地を囲い込む高さ二メートルを超える壁は、発掘期限が過ぎると、誰も立ち入りができないようにするためのものだ。
  時に冷たい雨の降る山の中の作業は、発掘にしろ壁作りにしろ、つらい仕事。作業員たちも生活のために地主に雇われたに過ぎない。インディヘナたちはそのことを十分知っている。
  軍部は内戦時、各地で自警団を組織した。村人は強制的にその自警団に参加させられた。政府に反対する言動をとるものを監視し、軍の命令を受けて虐殺を実行した。自警団に参加しなければゲリラのシンパと疑われ、参加すれば同じ共同体のインディヘナを抑圧する役割を担ってしまう。こうして内戦中にインディヘナの共同体社会は引き裂かれた。
  誰が誰によって殺され、どこに埋められているのか。そのことを知っている元自警団員はいまも同じ村に住んでいる。誰が元自警団員かもお互いに知っている。密かに遺骨の埋葬場所を教えてくれる元自警団員もいるが、彼らにとっては過去を掘り起こしたくないのが正直な気持ちである。情報のないコマラパの発掘現場では、手当たり次第に穴が掘られている。徒労は続く。さらに、発掘を妨害しようとする動きもある。
  「元自警団員が発掘調査を止めさせようと家を一軒一軒をまわり、遺族に署名簿を配り歩いたこともありました」
 ロサリーナ氏は現地紙のインタビューにこう答えた。
  コマラパでの発掘は結局、1000以上の穴を掘り、167体の遺骨を掘り出した。しかし、ロサリーナは、父の遺体を見つけ出すことはできなかった。

埋自らシャベルを握り、遺骨発掘に
汗を流すロサリーナ・トゥユク氏。

チマルテナンゴ県・パチャイ村、2004年

旧軍部の施設があったコマラパ村の丘。
1000を超える穴が掘られた。2週間半、
一体も遺骨が出ない日々もある。

チマルテナンゴ県・コマラパ村、2004年6月)

6月17日は「父の日」。カトリック神父が祈りを
捧げる中、肉親の霊を悼むインディヘナたち。
チマルテナンゴ県・コマラパ村、2004年6月)