『 救世主の国から 』 1

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              
1992年書いた内容をそのまま転載します。一部は 『 BOSTON NOTE 』 に連載しました。 フォトジャーナリストとしての出発点であるエルサルバドルの取材。 その当時の思いや考えを大切にしたいため、ほとんど手を入れずにアップしました。
 1992年1月13日、グアテマラ経由エルサルバドル行きの準備は全て整う。 アビアテカ航空へのリコンファームも終わった。ポリオ、マラリア、ジフテリア、肝炎(これはお尻に2本・・とても痛かった)、腸チフスの予防接種も済んだ。
 先週、モータードライブと新しいレンズを買いに、ニューヨークまでバスで行ってきたところだ。 フィルムは合計230本あまり。しかし、お金のないフォトグラファーの悲しさ、普通のフィルムは高くて買えない。100フィートの長さのフィルム缶を12缶買い、数時間かけて、小さいフィルムのカセットに一つずつ詰めていった。準備は万全だと思うが、スペイン語がほとんど話せない自分がどこまでやれるか大きな賭けでもある。

 エルサルバドルは中米地峡の中央に位置し、中米五ヶ国中、もっとも国土の狭い(二万一0四一平方キロメートル)国である。人口は約540万人で、人口密度はラテンアメリカ諸国の中では最高位にある。一人当たり国民所得は750ドル(1984年)であり、1985年の実質経済成長率はマイナス1,5%であった。全人口のうちおよそ 250万人が貧困層、すなわち十分に生活するだけの食料、衣料、住居を満たせない層と推計されている。文盲率は50%、乳児死亡率は1000人当たり75となっており、この数字は他のラテンアメリカ諸国(大多数が50以下)と比較しても相当に高いといえる。(『中米・カリブ危機の構図』有斐閣選書、細野・遅野井・田中)
 
  この日本の四国よりやや広い国土で12年間にわたり内戦が続けられている。そしてその間に75、000名にものぼる死者をだすに至っている。この国における内戦の 根は実に深いところにある。かつてエルサルバドルは、いわゆる「14家族」と呼ばれる一握りの人々によって国の富が独占されてきた。ほんの2%の富裕層が国土の半分以上を所有し、銀行や企業の8割以上はこの一握りの上層階級によって支配されていた。教科書的な「搾取」の構造が典型的に現われている国だった。 教育を受ける機会がない人々にとって、自ら受けているの不平等の根がどこにあるのか気付くチャンスさえ奪われていた。個人的な反抗も、支配層の意のままになる軍や私警察によって抹殺の結果を見るばかりであった。

 しかし、このまま生き地獄を続けるか、あるいは死を覚悟して立ち上がるかにまで追い詰められた人々は、1932年1月22日山刀持って蜂起した。だが、この反乱は事前に計画が漏れていたことや、アメリカの海兵隊の支援を受けた政府軍よって鎮圧された。約三万人の農民とその家族が無残にも虐殺されるという結果に終わった。現在あるゲリラ組織はこの1932年の蜂起を出発点としている。FMLN(ファラブンド・マルチ民族解放戦線)というゲリラ組織の名前は、当時の反乱の指導者=ファラブンド・マルチに由来する。

 FMLNは1981年10月、全国一斉蜂起をスローガンに政府軍に大攻勢をかけかなり有利に戦いをすすめるが、またもやアメリカ政府の介入と、武器弾薬の欠如したFMLN側と都市部の人々の後押しがなかったために最終的には失敗におわっている。しかし、FMLNは国の北部や東部で少しずつ、農村を中心に草の根の戦略をつづけ、1983年には国土の三分の一を支配下に置くまでになった。このころの政府軍は10年以上にわたる内戦や戦いの大義の喪失に士気があがらず、FMLN側の全国制覇は時間の問題だと思われた。

 エルサルバドルをキューバ・ソ連などの共産主義国家の最前線と決めつけた前レーガン政権は、9億ドルにわたる援助や対ゲリラ戦のヘリコプターや攻撃機の供与を開始した。これにより政府軍の力は一挙に増大した。政府側は、ゲリラ地区をつぎつぎに空爆しながら、力の論理を背景に和平交渉を有利に進めようとした。そして1984年10月、ラ・パルマの町で初めて和平交渉が実現した。ゲリラの武装解除を求める政府側と、政権への参加を要求するゲリラ側との主張は合意に至らず、和平交渉は行き詰まった。

 その後、双方の戦略結果によって、交渉は行なわれたり、物別れに終わったりすることがつづいた。そして、いよいよ昨年12月31日に、国連を仲介とした20ヵ月に及ぶ和平交渉が合意に達し、1992年2月1日を持って12年に及ぶ内戦に終止符が打たれることとなった。1991年の年末で任期が切れる、国連事務総長=デクエヤル氏の最後の大きな置土産でもあった。

 エルサルバドル国内で行なわれていた、想像も出来ないような拷問や虐殺の人権問題によって、アメリカ・カーター政権はエルサルバドルへの援助を中止するぐらいであった。しかし、それも力の論理を背景としたレーガン・ブッシュ政権によって覆されてしまった。内戦が始まってから、アメリカのエルサルバドルに注ぎ込んだお金は45億ドルにもなる。この異例ともいえる対外援助。アメリカ人ボランティア、アメリカ人牧師・修道女虐殺などによってアメリカ国内でもエルサルバドルへの援助を考え直そうという人も随分と増えてきた。

  アメリカ介入のもととなった「ドミノ理論」の主であるソ連はもう存在しない。そして、50万人にものぼるサルバドルからの難民を受け入れている(これはサルバドルの人口の1割にも及ぶ)アメリカ政府は和平交渉が合意に達したからといって、簡単に手を引く訳にはいかないであろう。じっさい、エルサルバドルの右翼勢力はこの合意を快く思っていないし、ある右寄りの新聞は「疑わしく、とても危険な」合意だと非難している。エルサルバドルに住む人々はこの合意によって、内戦が終決することを切に願っているのだが、今までの和平交渉の決裂の前例かこの合意を手放しで喜べないでいる。実際、1月3日のボストングローブしによると、エルサルバドルの北部のゲリラ支配地区において、”HEAVY FIGHTING"が新たに始まったと報じている。

  本当の平和を待ち望んでいる人々。そういう人々がいるところへ、2月1日という日に、一人の目撃者として私はエルサルバドルに入ろうとしている。  人間の一生はとても短いと思う。その短い間に一人の人間が出来ることもたかが知れているだろう。後戻りのない一方通行。それだったら後悔しない、120%の力で走り抜けていきたいと願う。

  中米の小国・エルサルバドル行きを決めてから。どうしてエルサルバドルなんだろうと考えてみることがよくある。なにが自分の進路をこうも変えてしまったのか。1987年、無事に大学を卒業し、本来の希望であるマスコミ関係へは進むことは出来なかったけれども、先生というやりがいのある職に一度はつくことが出来たというのに。

 毎日、自分をふりかえることが出来ないくらい忙しかったけれども、たくさんの子供たちや保護者の人々との出会いは、いま思ってもとても貴重なものであると感じる。でも、その忙しさの中に、何かが欠けていたのも事実である。自分の探し求めているものの影すら見ることが出来なかった。確かに、12〜15才という感性が敏感な年頃の子供たちと毎日接するということは、毎日新しい自分との出会いでもあったのだが。しかし、現実はそんなに易しくはないのも事実である。如何にこの子供たちが頑張ったとしても、最終的に彼らは、点数でその全てが計られるのではないかと思ってしまったからである。教師として生徒の前で、いかにもっともな事を喋ろうが、その言葉が通じるのは学校の中だけであり、世の中にはまったく通じないきれいごとにすぎないと悲しくも悟ってしまった。あのまま教師を続けるのなら、日本の今の教育制度を認め、点数で人を区別するシステムに手を貸すことになっていた。反対の声を内側からあげるほどの勇気は持ち合わせていなかったし、内側から変革できるなどという考えも持てなかった。それほど日本の教育制度は確立されつくしまっていのだとおもう。最低限、自分に正直になろうとして、手を引いたのだ。理想を述べるものなら、理想を述べるものらしく、理想を実行しようと思うに至った。

 吉田ルイ子が言うような「気持ちのよくないことはしない、あくまで自分に素直、自由が好き、組織に、人間に、イデオロギーに束縛されたくない。しかし、自分がみつけた目的には全身でぶつかっていく。孤独を恐れない、自由な、自然な、しなやかな生き方」を自分の理想としているのである。

 それでは再び、なぜエルサルバドルなのか。南アフリカでも、中東でも、コロンビアでもペルーでもどこでもいいじゃないか。戦争や内戦は世界のどこかで大々的に行なわれているのに・・・もっとも、いまでこそ自分はこれからフォトジャーナリストとしてやっていくんだという気持ちではあるが、写真を始めた動機はそんなに純粋なものではなかったはずだ。  数年前まで、狭い日本で若いエネルギーを使い果すよりも、せめて30歳になるまでは世界を旅し、いろんなものを見、様々な人々と出会ってみたいものだと考えていた。しかし、旅行家という職業は聞いたことがはあるが、果たしてかって気ままに旅行だけをして、それでメシが食えるんだという、それほど甘い考えは持ち合わせてもいなかった。とりあえず、英語という語学だけは困らない程度は出来たが、いったん日本の外に出てしまうと、何のとりえのない人間であるなあと思っていた。

 教師をやめるとき全校生徒を前にして、「私はこれから、日本人というわくを越え、国境という目に見えない線をまたぎ、世界人としてやっていく」と宣言したではないか。その当時、学校の写真係の担当になった私は、学校にある古いオリンパスを使ってもよかったのだが、これを機会に自分のカメラを持ってみようと思い、初めて自分の35ミリカメラを手に入れたのだった。学校の行事を撮るのが主だったが、少しずつ写真をとる面白さに引き付けられていった。そして、幾度となく失敗をしながらも、どうやれば写真雑誌に載っているような「うまい」写真が撮れるのかと試行錯誤していた。

 当時から世界の出来事に関心のあった私は、新聞や雑誌の切り抜きだけはずっと続けていた。そして、写真を撮ることを始めてからは、いままで手にしたことのなかった写真集にも目を向けるようにもなった。新聞や雑誌の切り抜きをしていた頃は、今起こっている出来事だけに注意が向けられがちだったが、写真集を手に取るようになってから、時代の流れをあらためて感じざるをえなかった。とくに戦争の姿を写した写真は衝撃的でもあった。テレビでもない、映画でもない、作り事でない世界がそこにあった。石川文洋、ロバート・キャパ等の写真は何度見返しても、言葉では言い尽せない迫力がある。 そして、彼ら戦争フォトグラファーを通して、徐々に戦争というものにひきつけられてしまった(非常に危険なことだが)

 人が人を殺すとはどういうことなのか。人が人を拷問して、苦しむ有様をみるとはどういうことなのか。そしてそういう現実があるに見過ごすままにしてよいのか。 中東、インド、スリランカ、南アフリカ、中南米。新聞に載る記事はきな臭いものばかり。しかし、これらの中で、どういう訳か、中南米に関する報告はもうひとつピントこなかった。学生時代に殆ど学んでこなかった地域であるし、大方のマスコミもあまり報道してこなかった分野でもある。そして、長倉洋海氏の「内戦 エルサルバドルの民衆」を読んだとき、オリバーストーン監督の「サルバドル」という映画を見たとき、中米に関する関心は一気に高まっていった。 しかしながら、大きな書店にいっても(紀国屋ですら)、中米に関する本は驚くほど少ないことに気付いた。今はなきソ連、南アフリカ、イスラエル・パレスチナ等に関する本は十分あったのに。

  人間関係を傷つけるもの−−無関心。
  人間を無残に殺すもの−−−無関心。  
               (犬養道子『マーチン街日記』)

 誰かがこの現状に関心をはらわねばと思う。金満国家といわれる日本で太るのを気にしながらダイエットに汗を流すのもよいが、人として目をそらすことの出来ない事件が世界では起こっている。 なにも聖人ぶろうというわけではないが、人として許せないことが存在し続けているのだ。寝るところも、食べるものもない、明日への希望がない、変革するための教育の機会も奪われている。許せない世界がそこにある。システムとなっている。そして、そのシステムを、アメリカや日本、先進ヨーロッパが維持しようとしている。 ─ ぼくは、おこっているんだ。怒っているんだ。  そのシステムに対して。アジアに関心をはらう人がいる。インドに関心をはらう人がいる。それなら中米に関心をはらう人がいてもいいじゃないか。去年12月、2年前に起こった牧師とボランティア虐殺に対しての追悼集会とデモ行進がボストンのダウンタウンで行なわれた。1昨年は5名のフォトグラファーがその集会をカバーしていたのだが、一年後の昨年、現場にいたフォトグラファーは自分一人であった。時間がたてば衝撃的な出来事も忘れられ、記憶からも消えていく。それなら、時間という流れに妥協しながら生きていってもよいのだろうか。

 一枚の写真が世界を変革することが出来るという理想はないが、しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、この世の中に提示できるという希望はある。そして、この自分もそんな写真を見て行動を開始した者の一人であると思う。エルサルバドルに関しては出来るだけ情報は集めたつもりであるが十分ではないであろう。しかしそれも考えようで、自分の頭の中に、一つの国に対しての既成概念を作ることができなかったことでもあり、変な先入観なしでエルサルバドル行きが出来ることである。 ボストンを離れるにあたって、肝に命じておきたいことがある ─ 自分の言動の為に、他の人を生命の危険にさらすことだけは避けたい。 それではまたグアテマラよりお便りします。

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1991年10月26日、ボストンのダウンタウンで行われたデモ行進。
1991年10月26日、ボストンのダウンタウンで行われたデモ行進。
エルサルバドルは中米の中で最も小さな国土。
エルサルバドル全図

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