沿線の思惑が走る
アジアハイウェイ

─ ビルマ/タイルートを行く (2) ─

陽の目を見る 「シルクロード」

 東アジアからユーラシア大陸を経てトルコを結ぶ、現代版シルクロード。一九五九年、当時の国連極東経済委員会(ECAFE)により、「貿易、観光の需要に応え、ひいては域内の経済・社会発展を促進するための国際陸上輸送網の整備を目的とし」て計画された。もっとも、新しい高速道路を造るのではなく、「各国既存の道路の中で地域間、国家間の交通網として活用が可能なものを特定し、これらを繋いでいく」という仕組み。
 ところが、アフガニスタン、ベトナム、カンボジア、ビルマ国内で紛争が続き、さらに湾岸戦争が起こる。その実現化は困難とされていた。しかし、アジア地域に平和が訪れ、各国間で貿易や観光などの経済的な結びつきが深まるにつれ、「アジアハイウエー」が見直されるようになってきた。
 二〇〇四年四月、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)主導でアジアの二五カ国が政府間協定に調印し、アジアからヨーロッパカ三二カ国を結ぶ「シルクロード」は息を吹き返した。日本は、この「アジアハイウエー」計画を推進するため、年間約一〇〜一五万ドル程度を継続して負担している。
 その「アジアハイウエー」の中で、長年閉ざされていた地域がビルマ国内にあった。


 一九八八年に民主化運動が起るまでのビルマは、「ビルマ社会主義」を標榜し、厳しい鎖国政策をとり続けていた。その結果、経済は破綻し、当時の軍事政権は崩壊した。その「ビルマ社会主義」の期間、隣国タイとの密貿易を支えたのが、パアンとタイ国境の町メソットに接するミャワディ間を走る約一四三qの道路であった。そこは、外国人の立ち入りが許されない区間であった。しかも、タイ国境に接するビルマ側の地域は、道路整備がほとんど進んでいない。その一番の理由は、両国国境周辺で、SPDCに対して、「少数民族」の一つカレン人が、「KNU(カレン民族同盟)を組織し、武装抵抗を続けているからである。


 SPDCのナンバー3であったキンニュン前首相は八〇年代末から、各少数民族と和平協定を積極的に進めていた。ビルマ人に対し極めて不信感の強かったKNUも二〇〇四年二月、キンニュン主導で和平交渉の「準備」を始めた。ようやく国境地帯で、平和への期待が生まれた。だが、その約半年後、ビルマの独裁者タンシュエ評議会議長によって、キンニュン首相は左遷された。和平交渉の準備は、出発点に戻ってしまった。

国境の内戦と経済 "協力"

 一九九四年一二月、SPDCの画策によりKNUは内部分裂を起こし、DKBA(民主カレン仏教徒軍)が組織される。それ以後、カレン州内での戦闘は、「KNU軍」対「SPDC+DKBA」という構図で戦渦が広がった。パアン市内では、M16自動小銃を抱えた一〇人ほどのDKBA兵士を見かけることがある。そこは、一つの地域の中に二つの軍隊組織が入り交じるいびつな地域でもあった。
 もっとも、地理的・民族的な状況から、カレン州のタイ国境一帯は、DKBAの勢力範囲とされていた。
 優勢な銃器を保持するSPDC側は九四年以降、カレン州内の主要道路やタイ国境に通じる道を抑えた。それに対し、KNU軍は、もっぱらゲリラ戦に転じるしかなかった。長期間におよぶ内戦で、KNU側は、年毎に弱体化していく。KNUが五〇年以上の武装闘争に耐えてこられたのは、「アジアハイウエー」を通る多くの密貿易業者への課税であった。その金額は、年間数十億円を超えていたという。戦闘継続の財源であった国境の要所は、ことごとくSPDCに奪われてしまった。KNUは経済的に苦境に陥った。
 二〇〇四二月、パアンからこっそりDKBAの司令部に行く機会を得た。偶然、車にヤンゴンからの商社員(ビルマ人)が同乗することになった。 「実は今、ミャワディの近くでアンチモン掘削の準備が進んでいるんだ。軍のナンバー2のマウンエイ将軍のの許可を得て活動している。韓国の企業から話があり、DKBAとも話をまとめる必要があるんだ。売り上げの取り分は、SPDC四割、DKBA一割、KNU一割、韓国企業四割という話でまとまってる」  政治的には衝突している各組織だが、仲介者が上手く立ち回ることによって、経済的に折り合いがついているのには驚いた。

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採掘場のため4枚の写真を合成 )
KNU(カレン民族同盟)の支配地区。タイの業者が錫を採掘。周囲の環境にはまったく配慮なしの露天掘り

軍内部が分裂している限り、スーチー氏の自宅軟禁からの解放は見込めなかった。だが、議長が軍内部を完全に押さえ切ったいま、国際社会の批判をかわすために、政治活動を 全く認めない形で、スーチー氏の解放があるのかも知れない。

町中の整備が進むビルマ側ココの町。