ビルマ
アジアから孤立する軍事政権(上)

─ アウンサンスーチー氏 と その思想は生きている ─

2年半ぶりにスーチー氏の生存が確認された。17年におよぶ軍事政権下で恫喝され抑圧 されても、彼女が率いる国民民主連盟は民衆の支持を得ている。だからこそ政権は怖れる。


 2005年12月の半ば、私はビルマの第二の都市マンダレーの下町を歩き回っていた。碁盤の目のように整った町の裏通りに入り込こみ、市井の人の姿を撮影していた。ふと目の前の民家に目をやると、真っ赤な看板が掲げられている。一瞬、自分の目を疑った。それはなんと、NLD(National Leagu for Democracy=国民民主連盟)の看板だった。マンダレー市街の中心地建つNLD本部の看板は立派なもの。だが、その時、自分の目の前にあるのは、小さな看板にすぎなかった。しかし、こんなところにもNLDの活動拠点があるのだ。


 その地区は、ふだん外国人はいない。周りの人はジロジロと私の一挙一動を凝視している。そんな状況で写真を撮るわけにはいかない。その場をいったんやり過ごす。大通りに出て区画を大きく一回りし、再び看板の前へ。素早く写真撮影することに成功した。  NLDは、現在も自宅軟禁下にあるアウンサンスーチー氏が書記長を務める政党である。ちなみにスーチー氏は、海外メディアがどのようにNLDを扱っているのか、次のように述べている。


 次に「野党」という言葉の問題がある。国民民主連盟(NLD)はしばしば「野党」と呼ばれる。しかし、やっと30数年ぶりに行われた民主的選挙で勝利したのはNLDであり、しかも同党は、1980年代と90年代に独裁体制から民主主義への移行を果たした国々の中で、他のいかなる政党も成し得なかったような圧倒的勝利を収めた。「野党」という言葉が国民のまぎれもない権限委託を勝ち得た党に当てられると、奇妙な響きを帯びる。
(「アウンサンスーチー ビルマからの手紙」『毎日新聞』1996年9月16日)

 NLDは実際、一九九〇年に総選挙で八割を超す議席を獲得している。だが、選挙結果を受け入れようとしない軍部は、現在も政権委譲を拒否し続けている。ビルマは六二年以来、軍部の顔ぶれは変わるものの、ずっと軍事政権が武力で国を支配し続けている国である。


 NLDは実際、一九九〇年に総選挙で八割を超す議席を獲得している。だが、選挙結果を受け入れようとしない軍部は、現在も政権委譲を拒否し続けている。ビルマは六二年以来、軍部の顔ぶれは変わるものの、ずっと軍事政権が武力で国を支配し続けている国である。

NLDのシンボルマークである「闘う孔雀」の刺青を
胸に入れた男性。

 5月27日、現在の軍事政権(SPDC=国家発展平和評議会)は、スーチー氏の自宅軟禁をさらに一年間延長するとの発表した。
  スーチー氏の身柄はこの措置により、最初の拘束である89年以降の17年間で、10年間は自宅に軟禁されているということになる。現在六一歳になる一人の女性の影響力を、40人万以上の兵士を抱える軍事政権が恐れているのだ。  現在の自宅軟禁は、2003年5月末のスーチー氏暗殺未遂事件(「ディペイン事 件」)に端を発している。この自宅軟禁によってスーチー氏は、外部との接触を完全に絶たれた。スーチー氏はどのような生活を送っているのか、健康状態は良好なのか。この間、氏に関する情報は、全く外部に漏れ出ることはなかった。
  ビルマを訪問中の今年4月、現地の友人から「もしかしたら、スーチー氏はすでに生存していないのではないか」、そう耳打ちされるほど、スーチー氏に関する情報は途絶えていた。

首都ラングーン(ヤンゴン)NLD本部。本部前付近には絶えず軍政当局からの監視があり、写真を撮るのも注意を要する。

周辺国から沸き上がる人権侵害への非難

 最近のSPDCは、自らもその一員であるASEAN(Association of Southeast Asian Nations=「東南アジア諸国連合」)に非難されはじめている。従来のASEANの対ビルマ政策は、西欧諸国のように圧力をかけてSPDCに民主化を促すより、対話による「建設的関与」によって同国に変化を求める、という立場を取っていた。
  ところが、遅々として進まないビルマの改革に、ASEAN内からも不平が漏れてきた。とうとう昨年12月のASEAN首脳会議で、スーチー氏の解放を促す議長声明が採択さた。内政不干渉が原則のASEANとしては異例のことであった。さらに最近になって、SPDCに最も理解を示していたマレーシアやインドネシアも方針を変え始めた。
  ASEANの特使として今年3月、マレーシアのサイドハミド外務大臣が、民主化状況を視察するためビルマに派遣された。ところが、スーチー氏への面会を許可されず、滞在予定を1日短縮して帰国の途につかざるを得なかった。マレーシアはいうに及ばす、ASEAN全体の面目も丸つぶれであった。
  さらにインドネシアのハッサン・ウィラユダ外務大臣は、「国内問題だといって、ノーベル平和賞受賞者拘束の批判をそらすのはもうできないのだよ。人権侵害は、もはやそれが国内問題だということは通じない。それが真理だよ」(『ウオール・ストリート・ジ ャーナル』)と語るまでになった。  これを聞いた知り合いのビルマ人は、「あのインドネシアに人権のことで説教されるとは思わなかった」と嘆く。
  スーチー氏の動向と生存が公に確認されたのはこの5月初めのこと。アナン国連事務総長の特命を受けた、事務次長(政治局長)のイブラヒム・A・ガンバリ氏がビルマを訪れ、スーチー氏と会談したことによる。実に二年半ぶりに外部の者がスーチー氏と接触し、その状況を確認できたのだ。 どうしてこの時期に国連事務次長がビルマを訪れることになったのだろうか。それは、昨年12月以降、人権状況が全く改善されないビルマを国連安保理の議題に乗せる動きが出始めていたからだ。
  米国の軍事介入を怖れて首都機能を突然ラングーン(ヤンゴン)からピンマナに移し、国際社会から距離を置こうとしたSPDCも、さすがにその動きには敏感にならざるを得ないようだ。


軍内部が分裂している限り、スーチー氏の自宅軟禁からの解放は見込めなかった。だが、議長が軍内部を完全に押さえ切ったいま、国際社会の批判をかわすために、政治活動を 全く認めない形で、スーチー氏の解放があるのかも知れない。

『ミャンマーの新しい灯』に掲載された写真。
NLDの本部に出入りする西側諸国の大使 館員の姿を捉える。