果てのないカレンの武装抵抗

─ ビルマの辺境 ─ 歴史と民族の隙間に生きる人びと
 小型エンジンがついたボートでサルウィン河を1時間ほどさかのぼる。
乾季の空は真っ青だ。しかし、河の水は濁っている。季節に関わらず1年
中、土砂を北から南へと流し続ける大河だ。やっと、次の中継地点へたど
り着いた。緊張の糸がゆるむ。時計はほとんど役に立たない山の生活だが、
国境を越えた習慣として腕時計を30分遅らせ、ビルマ時間に合わせる。
 連絡が入った。次の中継地点へ移動するのに、河原沿いのカレンの村で
あと2日間待たなければならない。サルウィン河を目の前にした小屋でく
つろげるなら、願ってもない。河の冷たい水で身体を洗う。河で水浴びを
すると、やっと戻ってきたんだな、という感覚が戻ってくる。河を隔てて、
タイ領がすぐ目の前にあるといっても、ここはビルマ領内のカレン解放区
だ。気を抜くのは禁物だ。いつビルマ軍の奇襲に遭うかわからない。
 チベット高原に源を持つ全長約2400kmのサルウィン河は、途中タ
イ・ビルマを隔てる国境となり、アダマン海に注ぎ込む。英語でいう「サ
ルウィン」とは、ビルマ語のタンルィンがなまった呼び方で、カレン語で
は「ホロー・クロー」と言う。ホロ・クローとはカレン語で、「(北から
南へ)下る・移動する河」を意味する。
 次の出発を待っている間に幸運に恵まれた。本当にカレンの新年を祝う
集いに参加することができたのだ。今年のカレンの新年は、12月25日
だ。夜明けを待たずして、近辺の村から家族総出でカレンの村人が集まっ
てきていた。30名ほどのカレン兵が整列し、これまでの戦闘で命を落と
した兵士に対して黙祷を捧げ、ギターを片手に歌う、簡単な儀式である。
 写真を何枚か撮す。帰国後、写真に写ったカレン兵を眺めていた。一人
ひとり兵士の表情を確認する。すると、なんと、タイ側で何度か顔合わせ
をしたタイの情報部員が写っていた。カレン兵士面で一緒に整列している。
これは一体どういうことだ。

 ビルマ国内とその周辺では現在、3つの「争い」が続いている。一つは、
国内の民主化を巡る闘争。二つ目に、民族自治の獲得を目指す武力抵抗。
最後に、今年2月から北タイ国境でビルマ軍とタイ軍が戦火を交えた、麻
薬を巡る紛争である。ビルマの問題を語るとき、この3つは互いに関連し
ており、どの一つも見落とすことはできない。このうち、国内の民主化と
麻薬問題を巡る紛争に関して、国際的な監視は続けられている。いわゆる
「人権」と「麻薬」は、国際的な関心事だからである。
 ところが、民族自治の問題を巡る問題は現在、ほとんど触れられること
はない。ビルマ以外の第3国には利害関係がないからである。国際社会は
一般的に、民族の独立問題は1960年代に終わったというのが大勢のよ
うだ。しかし、「20世紀は戦争の世紀だった」。たった1年前が過去の
ものとして表現される。そんなとき、アジアの辺境で今も、世界最長の内
戦が続いているという事実には触れられない。
 ビルマでは独立前からの内戦状態が、今も続く。もともと、ビルマは、
河や山脈を越えて異なった民族集団が群雄割拠していた。英仏の植民地侵
略に巻き込まれたビルマは、それこそ人為的に国境線が引かれた国なのだ。
英国の植民地政策は、首都周辺と「辺境地域」を分けて支配する形態をと
った。そのため「辺境」に住んでいた諸民族は、中央政府に属している国
民という概念は全くなかった。
 日本がビルマに侵攻した1942年、日本の特務機関「南機関」によっ
て指導されたビルマ独立義勇軍(BIA)は、ビルマと対立する英軍に加
わっていたカレン兵と、武装解除を巡って衝突した。この時多数のカレン
人がビルマ人に殺された。このことが大きな出発点になり、ビルマ独立後
のカレン人の反乱とビルマ人不信へとつながっていく。
 1940年代に火を噴き、ビルマ辺境で抵抗を続けている、いわゆる
「少数民族」のうち、現在も武器を持って軍事政権に抵抗闘争を続けてい
る最強の民族集団は、主にカレン人である。カレン人はもともと、モンゴ
ルから中国雲南を経て、ビルマに下って来たと伝えられている。人口約2
00万〜600万人のカレン人は、その言語形態から、大きく分けてスゴ
ーカレンとポーカレンの2つに別れる。